うみのおと

まちのこと ひとのこと うみのこと

はたはた

魚へんに雷と書いてハタハタと読みます。

今回は冬の日本海がもたらす恵みの小話です。

 

 

1. ハタハタ

ハタハタスズキ目の深海魚で、鳥取県では山陰沖を回遊しているハタハタを底引き網で漁獲しており、9月から5月が漁期となっています。

しかし秋田県では、11月から1か月ほどハタハタが浅瀬の藻場に移動して産卵するのを狙って、定置網や刺し網で漁獲します。

この漁法ではごく短い期間で大量のハタハタが漁れたため、一度に多くのハタハタを食べられる料理法が生み出されました。ハタハタを魚醤にしたしょっつるハタハタを炊いたしょっつる鍋もその一つです。

さらに、大量のハタハタを食べるため、ハタハタと米を発酵させたハタハタ飯寿司をはじめ、干物や漬け物など様々な保存食が生み出されました。

 

このように、正月前に大量にもたらされるハタハタは、神様の恵みだと考えられました。このため、魚へんに神と書いたハタハタと読みます。

秋田県の習俗に根付いたハタハタは、県民アンケートによって2002年に県の魚に選ばれました。

 

2. はたはた

さてはたはたとは、断続的に起きる音を表す擬音語として平安時代に誕生し、蜻蛉日記上巻の用例が誕生当時の息遣いを残しています。

 

つごもりの日になりてなまといふ物心みるをまだひるよりごほごほはたはたとするぞひとりゑみせられてあるほどにあけぬればひるつかたまらうどの御かた男なんどたちまじらねばのどけし。

 

平安時代以降も断続音としての用法が継続し、義経記などの作品にも用例が見出されます。

 

吹きもて来て、帆にひしひしと当つるかとすれば、風につきてざざめかし走りけるが、何処とは知らず、二所に物のはたはたとなきければ、船の中に同音にわつとぞ喚きける。

 

ですが、この断続音の意味が次第に狭められて、近代には布や翼が風を受けて立てる音や様子のみを指す現代と同様の用法が確立したようです。

 

番町の旦那といふは口数少なき人と見えて、時たま思ひ出したやうにはたはたと団扇うちはづかひするか、巻煙草まきたばこの灰を払つては又火をつけて手に持もつてゐる位なもの、絶えず尻目しりめに雪子の方かたを眺めて困つたものですなと言ふばかり、

樋口一葉,『うつせみ』

 

どうして、断続音を表す擬音語が魚の名前になったのでしょうか。

答えはハタハタが大挙する冬の日本海にありました。

 

〜〜〜〜〜

 

シベリア高気圧から吹き出した風が日本海を渡ると、温暖な対馬海流から寒冷な季節風へ強い上昇気流が発生し、積乱雲が成長します。
この積乱雲が日本海に冬季雷を落とし、冬の到来を続けざまにはたはたと告げるのです*1

 

日本海の雷日数が多い。気象庁HPより。

 


順位 雷日数 観測地点
1位 42.4日 金沢市
2位 35.0日 福井市
3位 34.8日 新潟市
4位 32.2日 富山市
5位 31.4日 秋田市
6位 26.6日 熊本市
7位 26.4日 鳥取市
8位 25.4日 松江市
9位 25.1日 鹿児島市
10位 24.8日 宇都宮市

年間雷日数トップ10。本州日本海側の県庁所在地が全てランクインしている。


この雷雲は雪やあられを伴うことが多いため、日本海では雪起こしや雪雷などの愛称で呼ばれることが多く、富山県ではブリの豊漁期に訪れるためブリおこしとも呼ばれます。
秋田県では、冬季雷の時季に豊漁期を迎える魚を雷の擬音語にちなんでハタハタと呼び、あるいは波多波多の字を当てました。

こうして、はたはたが冬季雷の擬音語として用いられ、冬季雷の轟く時季に豊漁期を迎える魚の名がハタハタとなったのです。

 

参考

*1:冬季雷は世界的に珍しい気象現象で、日本海のほかは、ノルウェー西海岸と五大湖東岸でしか発生しません。

内灘

金沢北郊の内灘砂丘は、手取川から運ばれた土砂が日本海の海流によって堆積してつくられ、国内で3番目に大きい砂丘です。

 

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10kmにわたってつづく内灘砂丘シームレス地質図および地理院地図より。

 

砂丘は、季節風による飛砂や夏の高地温といった環境の悪さから、浜岡砂丘や北条砂丘のように開発されないケースが多く、開発されたとしても新潟や鳥取といった大都市の一部に組み込まれて発展するケースが多数です。その中で、この内灘砂丘は郊外としての道を歩みました。

今回は砂丘に築かれた郊外のお話です。

 

 

1. 郊外電車 〜レジャー地の成立〜

1898年、日清戦争をうけて軍備増強をすすめる陸軍は、金沢城に北陸3県(富山・石川・福井)からなる第9師団を編成しました。また同1898年には鉄道(現・北陸本線)が金沢まで開通し、かつては三都(江戸・大坂・京)に次ぐ大都市であった金沢にようやく近代化が訪れます。

金沢にとって大きな転機となった1898年、外港である金石への鉄道(後・北陸鉄道金石線)が、1913年には宿場町である野々市への鉄道(現・北陸鉄道石川線)がそれぞれ開通し、金沢は都市圏を形成しようとしていました。

 

1880年代から遠洋漁業で著しい発展を遂げた内灘にも金沢都市圏の手が伸び、1924年浅野川電気鉄道(現・北陸鉄道浅野川線)が開通しました。

しかし、郊外電車は郊外から都市へ向かう定期需要ばかりに偏重してしまい、都市から郊外へ向かう非定期需要は薄弱になりがちです。
そこで浅野川電気鉄道は、大阪から宝塚へ向かう郊外電車からスタートした阪急電鉄を手本にとって、沿線開発を進めました。

一連の開発の目玉が1925年に宝塚をモデルに開園させた粟崎遊園です。
粟崎遊園は海水浴場、スキー場、温泉、劇場、動物園、遊具施設、野球場を擁する一大レジャー施設で、1928年には宝塚歌劇団を手本にとった少女歌劇団が編成されます。

 

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北陸鉄道浅野川線の終着・内灘駅。1929年に粟ヶ崎遊園駅として開業。

 

金石へ伸びる金石電気鉄道も負けじと対抗し、涛々園を開園しました。こちらも温泉、旅館、動物園、劇場、写真館を擁する一大レジャー施設で、両園は来園客の誘致にしのぎを削りました。

 

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金沢から郊外へ伸びる3本の鉄路。今昔マップより。

 

しかし、1941年に太平洋戦争が開戦すると、粟崎遊園と涛々園はともども休園に追い込まれました。
栗崎遊園は第9師団に接収され、仮兵舎や日本タイプライターの軍需工場として転用されました。

 

2. 内灘闘争 〜農業への転換〜

第二次世界大戦に敗れ荒廃しきった日本でしたが、1950年に朝鮮戦争が開戦すると米軍の兵器需要が増加し、特需景気とよばれる好景気を迎えます。

この特需で砲弾需要も増加し、米軍は日本メーカーが納入する砲弾の性能を検査する試射場が必要となりました。

この試射場には長い海岸線をもつ砂丘が適したため、浜岡砂丘内灘砂丘が候補に挙げられ、政府は内灘砂丘への試射場設置を内灘に通告しました。

しかしこの試射場設置に対し、内灘内灘闘争と呼ばれる多角的な反対運動を展開しました。

内灘は試射場設置への反対を決議し、北陸鉄道浅野川線での資材搬入に対してストライキを決行しました。

さらに1953年の衆参両院選*1では、接収を担当した林屋亀次郎国務相が、接収反対を掲げた井村徳二氏に敗れました。

 

しかしながら、熾烈な反対運動もむなしく、試射場の使用が許可されました。このため、砂丘を拠点としていた沿岸漁業が操業できなくなりました。また、時を同じくして、内灘漁団は北海道や青森の漁場から締め出され、内灘は主産業である漁業を失います。

 

窮地に追い込まれた内灘が見出した活路は農業でした。

試射場の補償として1953年からはじまった内灘地区代行開墾事業では、砂丘の開墾や防風林・灌漑施設の設置といった農業基盤の整備が行われました。

さらに米軍が1957年に撤退すると、追加補償として河北潟干拓され、大規模稲作による食糧基地が目指されました。

 

しかし1970年に減反政策が始まり、1985年に干拓が完了しても干拓地での稲作が禁止されました。このため、干拓地では畑作あるいは酪農が営まれました。

ですが、そもそも畑作に慣れていないうえ、干拓地ゆえに野菜が冠水することもしばしばでした。これらの困難に直面して畑地を手放す農家が相次ぎ、この耕作放棄地には工場や宅地が進出することとなります。

 

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内灘砂丘から河北潟と白山連峰を望む。

 

意図しない外圧により、漁業から農業へと産業構造を転換させられた挙句、内灘は主産業を失ってしまいました。一体どこに活路を見出せばよいのでしょうか。

 

3. 宅地化 〜砂上の郊外〜

内灘に、金沢の手が伸びてきたのは高度経済成長期のことでした。

高度経済成長を迎えて膨張する金沢市は、1954年の安原村、額村、内川村、犀川村、湯涌谷村、1956年の押野村、1957年の浅川村、1962年の森本村と4次にわたって8村を編入しました。

それでも膨張の止まらない金沢の受け皿として、石川県は内灘にフィーチャーし、1960年に内灘村を金沢都市計画区域に指定しました。

そして、都市計画の叩き台として、1960年に石川県住宅公社は内灘砂丘上にアカシア団地を造成しました。

当初は「砂上の楼閣」などと揶揄されたアカシア団地でしたが、芝生や植樹を徹底して飛砂を防ぎ、全ての住宅を平屋建として安全性にも配慮したため、ほどなく成功を収め、転入者が急増した内灘は1962年に町制を施行して内灘町となります。

 

この成功を受けて石川県住宅公社は、1967年の鶴ヶ丘、1969年の鶴ヶ丘4丁目、1970年の鶴ヶ丘5丁目と、内灘町への住宅団地の造成を進め、民間による宅地開発も進みました。

加速する宅地化と地価高騰を目の当たりにした土地所有者は、民間や石川県に土地を売るのではなく土地区画整理組合を組織しはじめ、1967年の大根布第1・ニューアカシア、1968年の鶴ヶ丘、1969年の向粟崎、1971年の向粟崎第2、1972年の向粟崎第3、1973年の向粟崎第1、1974年の大根布第3・向粟崎第5、1975年の大根布第2などの土地区画整理事業が展開されました。

 

4. 文教都市ベッドタウンからの脱皮〜

郊外都市に活路を見出した内灘町でしたが、内灘闘争のような産業構造の転換がいつ訪れるかわかりません。このため、内灘町は新産業の開拓に取り組みます。

そして、新産業として脚光を浴びたのが北陸電力金沢火力発電所の建設計画でした。内灘町は重工業への転換を目論んだのです。

ですが、内灘闘争での経験から、計画を小出しに公表すると、町民の反対に遭って計画が難航することは必至でした。

このため、内灘町はできる限り計画の公表を遅らせ、1970年に北陸電力と用地買収の仮契約を済ませてから公表に踏み切りました。
しかし、内灘町は既に郊外としての道を歩みはじめていました。住環境が脅かされた県営住宅の住民を中心に反対運動が展開され、北陸電力は1973年に火力発電所の建設地を七尾市に変更します。

 

こうして内灘町は重工業への道さえも絶たれてしまいました。そんな中頼みの糸となったのが大学誘致でした。

この大学誘致は晴れて実現します。1972年に金沢医科大学が開学し、1974年に金沢医科大学病院が開院しました。

さらに、1985年には若年人口の増加をうけて内灘高校が開校し、内灘町文教都市としての道を歩んだのです。

 

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内灘砂丘から日本海を望む。

 

今となっては何の変哲もない郊外に見える内灘町ですが、幾度もの産業転換を迫られながらも砂丘に花開いた文教都市だったのです。

 

参考

*1:いわゆるバカヤロー解散。

筑紫

地方自治法に以下の条文があります。

第八条 市となるべき普通地方公共団体は、左に掲げる要件を具えていなければならない。
一 人口五万以上を有すること。
二 当該普通地方公共団体の中心の市街地を形成している区域内に在る戸数が、全戸数の六割以上であること。
三 商工業その他の都市的業態に従事する者及びその者と同一世帯に属する者の数が、全人口の六割以上であること。
四 前各号に定めるものの外、当該都道府県の条例で定める都市的施設その他の都市としての要件を具えていること。

 

福岡市の南に位置する那珂川町は、福岡市のベッドタウンとして人口が増加し、2015年の国勢調査で人口が5万人を突破したため、2018年に市制を施行し晴れて那珂川市となりました。

 

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博多南駅。1990年に開業し、那珂川町の発展を牽引した。

 

しかし、那珂川市誕生の影で、所属する町村を失った筑紫郡が消滅しました。

これを受けて、ネット上には「歴史ある筑紫郡」の消滅を悲しむ声がちらほら見られました。

ですが、本当に筑紫郡は歴史ある地名なのでしょうか?

 

 

1. 筑紫国

筑紫という地名の歴史は古く、国産み神話に遡ることができます。

たとえば、古事記に以下の一節があります。

 

於是、二柱神議云「今吾所生之子、不良。猶宜白天神之御所。」卽共參上、請天神之命、爾天神之命以、布斗麻邇爾上此五字以音ト相而詔之「因女先言而不良、亦還降改言。」故爾反降、更往廻其天之御柱如先、於是伊邪那岐命先言「阿那邇夜志愛袁登賣袁。」後妹伊邪那美命言「阿那邇夜志愛袁登古袁。」如此言竟而御合生子、淡道之穗之狹別嶋。訓別、云和氣。下效此。次生伊豫之二名嶋、此嶋者、身一而有面四、毎面有名、故、伊豫國謂愛上比賣此三字以音、下效此也、讚岐國謂飯依比古、粟國謂大宜都比賣此四字以音、土左國謂建依別。

次生隱伎之三子嶋、亦名天之忍許呂別。許呂二字以音。次生筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別自久至泥、以音、熊曾國謂建日別。曾字以音。次生伊伎嶋、亦名謂天比登都柱。自比至都以音、訓天如天。次生津嶋、亦名謂天之狹手依比賣。次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋、亦名謂天御虛空豐秋津根別。故、因此八嶋先所生、謂大八嶋國。

 

イザナギイザナミの二神が、

  1. 淡路島
  2. 四国島
  3. 隠岐島
  4. 九州島
  5. 壱岐島
  6. 対馬島
  7. 佐渡島
  8. 本州島

大八島を産んだとき、4番目の島として筑紫島(九州島)を産んだ記述があります*1

 

しだいに、筑紫島(九州島)の一地域である白日別が、筑紫国を名乗って成立し、筑紫筑紫島の一部を指す広域地名へと縮小します。

さらに、7世紀末に筑紫国筑前国筑後国に分割されると、筑紫筑前国御笠郡の筑紫神社周辺を指す小地名に縮小します。

しかしこのとき、筑紫国には筑紫郡は存在していません。

 

2. 筑紫郡

奈良時代令制国が定められたとき、徴税などを所掌する下位行政区画として郡が設けられ、那珂川市をはじめとする那珂川流域には那珂郡が設けられました。

しかし、11世紀に入って荘園が台頭すると、郡は単なる地理区画に成り下がり、明治時代まで大きく変化することなく保存されました。

しかし、廃藩置県により誕生した府県*2が全国70000か町村を統治しきるのはいささか無理があります。このとき、道府県と町村の中間地理区画として郡がフィーチャーされ、1878年に郡区町村編制法で郡は晴れて行政区画となりました。

ですが、郡は奈良時代の人口分布をもとに制定されたままの姿を留めており、明治時代の人口分布にそぐいません*3

このため、郡区町村編制法には以下の条文が設けられました。

第三条 郡ノ区域広濶ニ過キ施政ニ不便ナル者ハ一郡ヲ画シテ数郡トナス(東西南北上中下某郡ト云カ如シ)

第五条 毎郡ニ郡長各一員ヲ置キ毎区ニ区長各一員ヲ置ク郡ノ狭少ナルモノハ数郡ニ一員ヲ置クコトヲ得

つまり、行政上の便を図るため、葛飾郡や伊那郡のような大郡は東西南北あるいは上下で分割する一方で、磐田郡や見島郡のような小郡は他の郡とともに管轄されたのです。

福岡県にも席田郡(現在の博多区の一部)のような小郡があり、御笠郡大野村雑餉隈に置かれた御笠席田那珂郡役所により御笠郡・那珂郡とともに管轄されることとなりました。

 

行政区画としての郡はますますフィーチャーされ、1896年に福岡県で郡制が施行されました。この郡制により、これまでともに管轄されていた那珂郡・御笠郡・席田郡は合併することとなり、新しい郡名は御笠郡内の筑紫神社筑紫の地名の由来であることからとられて、筑紫郡命名されました。

このように、筑紫郡は登場してからわずか100年あまりの新しい地理区画です。どうやら、歴史があるとは言えなさそうです。

 

3. 行政区画と地名

それでは、どうして筑紫郡が歴史ある地名として認識されたのでしょうか。筑紫郡のその後を追ってみましょう。

 

町村以上府県未満の行政区画としてフィーチャーされた郡でしたが、蓋を開けると単に行政の煩雑化をもたらしただけでした。

このため、1923年に郡制は廃止され、郡は再び地理区画に戻ります。

しかし、町村の上位地理区画として残存しつづけたため、町村の住所を書くときは、所属郡を示す必要が残りました。

筑紫郡はわずか100年余りの地理区画でしたが、それでも住所を書くたびにつきまとい、住民にとっては福岡県や那珂川町と同等の地理区画だったのでしょう。

この煩雑ながらも湧いてしまった郡名への愛着が、筑紫国という古地名と混同され、「歴史ある」と評されたのではないでしょうか。

 

参考

*1:日本書紀にも国産み神話の記述がありますが、書によって国産みの順番が異なります。

*2:地方公共団体としての北海道の設置は1886年東京府の都制施行は1943年です。

*3:奈良時代の人口中心であった奈良県は、明治時代には全国最低レベルの人口まで落ち込み、一時は堺県に併合されていたほどでした。