うみのおと

まちのこと ひとのこと うみのこと

青森

青森市青森県の県庁所在地です。

今回は矢継ぎ早に変化する交通体系に翻弄されたまちの話です。

 

 

1. 青森港

1625年、弘前藩は幕府から江戸への津軽米の輸送を許され、太平洋海運への参加が促されました。

そこで、弘前藩は積み出し港として青森を整備し、青森は城下弘前に次ぐ人口を有する都市へと成長しました。

当初は津軽米の積み出し港として整備された青森でしたが、ロシアが不凍港を求めて東アジアへと勢力圏を拡大すると、蝦夷地(現・北海道)の地政学的重要性が増し、1865年に蝦夷地への渡海地として指定されました。

1871年廃藩置県弘前藩弘前県となり、陸奥国のほぼ全域を所管しましたが、陸運・海運の至便さが評価されて青森へ県庁が移転し、青森県が成立します。

 

1873年から開拓使青森函館間に定期航路を開設し、青森はますます北海道への玄関口としての性格を強め、1891年に日本鉄道(現・東北本線)が青森延伸を果たした際も、青森港に隣接するように駅が開設されました。

 

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青森港に接続する青森駅。今昔マップより。

 

2. サンロード青森

戦後の地方都市の伸長は著しいものがありました。

 

戦後急増する青森県の人口。

 

この人口伸長は青森市にも認められ、1958年 以降は年間5000人のペースで人口が増加し、2000年には人口30万人に到達しました。

この人口急増を受けて、1960年代に郊外畑地の工業化と工業化が進展し、1970年代のモータリゼーションを招きました。

青森市でも1972年に青森西バイパスが、1978年に青森東バイパスが全線開通し、自動車交通への変遷が進んでいました。

 

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戦後急拡大した青森市。今昔マップより。

 

その中で、郊外型ショッピングセンターが青森市にも触手を伸ばしていました。

チェーン店の青森進出に対抗するため、青森資本のショッピングセンター開業が企図され、日本初の地元主導型ショッピングセンターであるサンロード青森が1977年に開業しました。

サンロード青森は、青森主導であったため、キーテナントであるジャスコ(現・イオン青森店)よりも地元テナントの店舗面積が広いことにあります。

開業後は他地域のショッピングセンターよろしく大変な活況で、駐車場は連日満車だったそうです。

 

3. テクノポリス

1983年に高度技術工業集積地域開発促進法が施行され、全国26のテクノポリスが指定されました。

【全国26のテクノポリス

道央、函館、青森北上川流域、秋田、仙台北部、山形、郡山、宇都宮、信濃川、富山、甲府、浅間、浜松、西播磨吉備高原、広島中央、宇部、香川、愛媛、久留米・鳥栖、県北国東、環大村湾、熊本、宮崎、国分隼人

 

青森地域では1985年にテクノポリス開発計画が承認され、「北の技術定住都市の建設」をテーマに、弘前大学青森大学青森公立大学(1993年開学)の3大学を核にしたテクノポリスが建設され、産業技術開発センターの充実、テクノセンターの設立等が行われました。

そして、テクノポリスの利便性を高めるため、1985年に青森空港新滑走路が供用を開始して中型ジェットが就航し、1987年に青森空港有料道路が開業しました。また、1987年には東北自動車道が全通しました。

 

4. 青函トンネル

1988年に青函トンネルが開通して青函航路が廃止されました。

北海道への玄関口として成立した青森にとって、本州と北海道を直通する青函トンネルの開通は町の根幹を揺るがしかねません。

このため、青森市青森駅および青森港の再開発に踏み切り、1986年に青森県観光物産館アスパム青森駅ビル・ラビナを開業させました。

しかし、商業機能の中心市街地への揺り戻しはサンロード青森にとっては看過できません。このため、サンロード青森は1985年にリニューアル工事を行い、さらなる魅力の創出に努めました。

 

5. スプロール

サンロードの好況や1979年の青森インター開業を受けて、商業機能の郊外進出が進み、1990年にみなみ百貨店がジョイフルシティみなみとして移転開業しました。

 

【商業施設と青森ねぶた

当時の郊外商業施設の勢いが盛んだった傍証として、青森ねぶたの運行団体を見てみましょう。

サンロード青森は、地元の人々に開店を知ってもらうために、1977年にねぶたの運行を開始し、現在まで運行を続けています。

また、 みなみ百貨店(現・ジョイフルシティみなみ)(1976〜1992)やダックシティー青森ビブレ(現:さくら野百貨店青森本店)(1993〜2001)も運行していた。

 

また、商業施設の郊外移転に呼応して公共施設の郊外移転も進み、1970年に安方魚市場が閉鎖して卸売市場が郊外に移転したほか、青森県立中央病院(1981年)、青森県立図書館(1993年)と続々と移転が進み、行政機能が空洞化しました。

 

さらには、2000年の大店法廃止にあわせてイトーヨーカドー西バイパスパワーセンターが開業するなど、青森市街のスプロール化は留まるところを知らなさそうです。

 

6. 空洞化

各種施設の郊外に呼応して、中心市街地の空洞化が進みました。さらに、バブルによる地価高騰を受けて中心市街地の土地が買い占められた挙句、バブルが崩壊して多くの土地が売れ残りました。

また、中心市街地でも青森駅前への商業集積が進みました。

このため、中心街に位置する松木屋は窮地に立たされ、2003年に閉店に追い込まれました。

 

7. コンパクトシティ

市街地の拡大に伴い、地価が低下するだけでなく、上下水道や除雪の対象となるエリアが拡大しました。

 

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青森市一般会計(1300億円)の1%以上に及ぶ除排雪経費。除雪はどんな仕事?/青森市平成31年度予算/青森市より。

 

止まらない都市拡大に対する解決策として青森市が打ち出した方策がコンパクトシティでした。

青森市は1999年にコンパクトシティ構想を盛り込んだ都市計画マスタープランを日本で初めて策定し、郊外の開発規制ならびに市街地への開発誘導を展開しました。

コンパクトシティ建設の一環として青森駅前商店街を核とした中心市街地の再開発が進められ、2001年にAUGAが、2006年にミッドライフタワーが竣工しました。

 

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夜の青森駅前にそびえ立つAUGA。


これらの先進的な取り組みが評価され、青森市は2005年・2006年に政府都市再生本部の全国都市再生モデルの対象都市に選ばれました。

また、2007年には、富山県と共に中心市街地活性化基本計画が国に認められました。

 

8. AUGA

コンパクトシティの核である青森駅前に、虎の子として開業したFestival City AUGA | フェスティバル シティ アウガでしたが、決して平坦な道ではありませんでした。

計画当初はダックシティ(現・さくら野百貨店)をキーテナントに据える予定でしたが、バブル崩壊により親会社のマイカル(現・イオンリテール)は出店を断念しました。

次いで、松木屋に資本参加していた西武百貨店(現・そごう・西武)が老朽化の進む松木屋の移転改装も兼ねて開業する予定でしたが、こちらも出店を辞退するなど、テナント誘致は難航しました。

また、バブル崩壊の煽りを受けて資金調達も難航したため、青森市から資金を借り上げた第三セクターが運営することとなり、高層部には公共施設が配されました。

こうして2001年にやっとこさ開業に漕ぎつけたAUGAは年間600万人もの来館者を誘致しましたが、その経営状況は厳しいものでした。

青森市は、中心市街地の核施設を破綻させるわけにはいかないと、債権取得や利息低減などの支援を試みたが、批判も少なくありませんでした。

 

9. 東北新幹線

どのような批判を受けても青森市青森駅の開発に拘泥したのには、2010年の東北新幹線新青森延伸にありました。

 

1973年に整備新幹線の整備計画が決定され、北海道新幹線東北新幹線奥羽本線の結節点として新青森駅が整備されることとなりました。

この整備計画を受けて、1975年ごろから新青森駅周辺の区画整理が検討されましたが、オイルショック国鉄解体、さらには大宮以南の建設反対運動などを受けて、建設は大幅に遅延していました*1

いつまで経っても延伸しない東北新幹線に住民の不満も募るばかりでした。このため、国鉄(現・JR東日本)は1986年に奥羽本線部を先立って開業させましたが、新幹線の延伸計画はいまだ立っておらず、駅周辺の開発も手付かずのままでした。

 

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農地や林地が広がる新青森駅周辺。今昔マップより。

 

新青森駅周辺は2001年にやっと都市計画決定されましたが、これは1999年に青森市コンパクトシティ構想を打ち出した後でした。

このため、青森駅に並ぶ拠点とする当初の計画は見直され、青森駅と競合しないよう高さ制限や店舗面積などが制限されました。

しかしながら、2010年に東北新幹線新青森への延伸を果たしてもなお、新青森駅周辺の開発は進まず、更地が広がっていました。

このため青森市は、2011年に商業施設等の開設に対する補助金を、2012年には斡旋事業者に対する支援を設けましたが思うような成果は上がらず、2013年に青森市は高さ制限ならびに店舗面積を緩和しました。
しかしながら、新青森駅の北側を東西に貫通する国道7号沿いにはガーラタウンをはじめ20年以上かけてロードサイドショップ街が形成されたため、新青森駅への出店余地が乏しい状態となっています。

また、市民センター等の配置も一段落しているため、公共施設の立地も現実的でなく、手詰まりの様相を見せています。

 

さて、東北新幹線延伸に合わせて青森駅前の活性化も企図されました。

その核となる施設として、2010年JR東日本によりA-FACTORYが、2011年青森市によりねぶたの家ワ・ラッセが整備され、総合交通ターミナルや青森市観光交流情報センターも整備されました。
しかしながら、青森駅前の再開発に注力され、当初のコンパクトシティの理念と乖離する政策が展開されました。

 

10. AUGA再建

コンパクトシティを目指した青森市でしたが、時代の要請に応じた政策を展開しているうちに、商業機能が青森駅新青森駅・ロードサイドに分散してしまいました。
そして、2009年の市長選で新人の鹿内氏が現職の佐々木氏に打ち勝つと、コンパクトシティは12か所の市民センターを拠点とするものに拡大しました。

しかし、鹿内政権下でもAUGAの経営状況は依然として厳しく、青森市は2億円の融資や債権元金の繰延べ、さらなる支払利息の低減といった支援を施しましたが、2017年に青森駅前再開発ビル株式会社は24億円の債務超過を抱えて解散しました。

そして鹿内市長は、回収不可能となった融資金の責任を取って2016年に市長の座を辞しました。

 

そして、2017年には低層部の商業テナント36店舗が閉店し、テナント跡地には青森市役所駅前庁舎が入居しました。
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テナント閉店から青森市役所が入居するまでの間、低層部は営業終了扱いとなっていた。2017年8月撮影。

 

本州と北海道をつなぐ結節点として成立した青森の町は舟運、鉄道、高速道路、航空、新幹線と矢継ぎ早に挿入される交通体系に翻弄されながら、また新たな局面を迎えようとしています。

 

参考

*1:当初、東京盛岡間の完成目標は1977年でしたが、大宮盛岡間の開業は1982年に遅延し、東京盛岡間の全通は1991年までずれ込みました。

志賀公園

志賀公園名古屋市北区に位置する5haの公園です。

 

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志賀公園。東側宅地に続く園路と連続した街区が目につく。地理院地図より。

 

今回は都市公園からみた都市史のお話です。


1. 寄付公園

近代に入り都市が過密化すると、1920年都市計画法が施行され、名古屋市でも本格的な都市計画がはじまりました。
この都市計画の一環として1926年に告示されたのが名古屋都市計画公園です。本計画では、都市風致のために保存すべき水辺地・樹林地・神苑・史跡名勝を核として、いずれかの公園に2km以内で到達できるように以下の24園が計画されました。

稲永、土古、小碓、荒子、松葉、横井山、中村、白川、押切、庄内、志賀、建中寺、長母寺、城山、東山、鶴舞、萩山、田光、熱田、熱田神宮呼続、笠寺、道徳、鳴尾

 

しかしながら、これは単なる都市計画決定であり、名古屋市には開園へ漕ぎつけられるような財源がなかったため、机上の空論だと揶揄されました。

そこで名古屋市は、土地区画整理組合からの公園寄付に頼ることにしたのです。

 

志賀公園は、西志賀の平手政秀旧跡を核に決定された8haの公園でしたが、1802年に建立された石碑を除いて田畑が広がるのみで、都市公園には程遠い有様でした。

 

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西志賀地区。村落のほかは田畑が広がる。今昔マップより。

 

志賀公園の整備は西志賀区画整理組合によって担われ、田畑を埋め立てるために0.2haの池が掘削されました。

ただ、整理面積の1割を志賀公園が占めたため、整理事業が早晩に行きづまり、平手政秀旧跡を中心とした2haへの計画縮小を余儀なくされます。

 

しかし、未完成ながらも来園者が増え、住環境の良さが人気を博して西志賀区画整理組合の経営が好転し、1932年には公園南部が拡張されました。

こうして、志賀公園の存在によって経営が好転した西志賀土地区画整理組合から、1934年に寄付されたのが志賀公園で、名古屋市で初めての寄付公園でした。

この志賀公園の成功を受けて、他組合からの公園寄付が相次ぎ、名古屋都市公園計画は大躍進しました。

 

2. 防空公園

こうして開園に漕ぎつけた志賀公園は、まだ計画面積8haのうち3haしか開園していません。

残る東西部5haは西志賀土地区画整理組合によって確保されており、都市計画指定が敷かれたためみだりな開発も許されず、田畑と園路が保存されました。

 

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土地区画整理事業は東西の公園予定地を残して完成した。今昔マップより。

 

公園計画が進展するのは昭和に入ってからでした。

本土空襲への脅威の高まりから1937年に防空法が施行され、防火の観点から1939年に公園事業用地取得に対する国庫補助制度が創設されました。

また、国民の体力増進を図るため、運動公園の建設が進みました。

 

志賀公園でも、1942年に公園西側を拡張して運動場を設置する計画が企てられ、1945年には未着手であった西側3haが防空緑地公園として事業決定されました。

しかしながら、いずれの計画も具体的に着手される前に終戦を迎え、公園計画は宙吊りになります。

 

3. 宅地化

終戦を迎えても、依然として志賀公園の東西側には未着手の公園用地が残されました。

 

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園路を基に整備された田畑。国土地理院より。

 

これまで都市計画公園指定によって法的拘束力もないまま保護されてきた公園地でしたが、戦後の急速な都市膨張に押し負けて、園路を残したまま宅地化してしまいました。

 

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東西予定地の宅地化が進展してしまう。今昔マップより。

 

そして、都市計画決定から相当年月が経過したとして、1958年に東側部3haが計画削除され、志賀公園の計画面積は5haとなりました。

一方、公園未整備である西側2haについては改めて都市計画決定され、1981年と2014年の用地買収を経て現在に至ります。

 

4. 機能付与

1973年、厚生省(現・厚生労働省)は身体障害者福祉モデル都市の設置を提唱しました。

名古屋市では、1978年に区単位のまちづくりを決定し、北区は志賀公園に友愛広場を設置しました。


そして、名古屋新世紀計画2010の一環として、2004年に健康福祉局は志賀公園西側の工業技術試験所跡地にクオリティライフ城北21の設置を決定しました。

 

都市問題に対処する役割を果たすため、志賀公園は自らを宅地に変えてでも、懸命に作用したのです。

 

参考

  • 白幡洋三郎,近代都市公園史の研究,思文閣出版,1995
  • 丸山宏,近代日本公園史の研究,思文閣出版,1994
  • 日本公園百年史刊行会,日本公園百年史,日本公園百年史刊行会,1978
  • 青木公彦,戦前の名古屋都市計画公園史について,平成24年度NUI特別レポート,2013
  • 青木公彦,名古屋都市計画公園緑地等の歴史(戦後〜昭和44年),2017
  • 向口武志,戦前名古屋における「名古屋都市計畫公園」の実施過程,日本都市計画学会都市計画論文集47,2012
  • 向口武志,戦前名古屋における志賀公園の成立に関する研究,ランドスケープ研究75(5),2012
  • 石神甲子郎,名古屋都市計畫公園指定の効果,造園雑誌3(3),1936
  • 志賀公園管理運営方針

立野

今回取り上げる立野は、奈良県三郷町の一地区で、1889年に立野村だったものが、勢野村・南畑村と合併して三郷村となりました*1

 

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三郷駅を中心に展開する立野地区。地理院地図より。

 

純農村であった奈良県三郷村(現・三郷町)も京阪神都市圏の御多分に洩れず1960年代から宅地化の波が押し寄せ、近鉄生駒線が通過する勢野地区を起点に宅地化が進みました。

人口増加は喜ばしいことである反面、村外のデベロッパーによる農地の乱開発によってスプロール化が進行し、三郷町当局が宅地分譲を手がけるほどでした。

 

産業構造の転換を迫られた三郷村は生き残りをかけて、宅地に匹敵する高い生産性を求めました。このとき、三郷町が選んだのは、①農業の高付加価値化と②宅地化を織り込んだ農地転用です。

今回は、迫りくる宅地化の波に立ち向かった農村の話です。

 

大和洋らんセンター

そもそも、宅地化は宅地の生産性が農地よりも高まったときに起きる現象です。つまり、無秩序な宅地化を防ぐためには、農業の高付加価値化が有効な手立てとなります。

そこで1962年、三郷村は農業構造改善事業の指定を受けて、立野地区の水田を区画整理した上で、温室花卉農家の育成を試み、1964年に農業組合として大和洋らんセンターが発足しました。

 

農住団地

しかしながら、宅地化に歯止めはかからず、1966年に三郷(みさと)村は三郷(さんごう)町となりました。

立野地区にも宅地化の波が及ぶ中で、農林省(現・農林水産省)は1970年から3年かけて以下の26か所の農村住宅団地建設計画モデル地区について調査研究を行いました。

江別市江別太・亀田市本通東山・仙台市中田・取手市新取手駅前・水海道市豊岡・栃木市大宮・太田市九合南部・川口市安行・君津市宮下・町田市真光寺広袴・川崎市西新百合ヶ丘長野市若槻・三島市加茂・静岡市高松・新潟市鳥屋野女池・東浦町緒川新田・久居市中町・加古川市友沢・ 三郷町立野岡山市白石・坂町坂本郷・安佐町日浦・下関市勝山・詫間町神田・北九州市曽根下貫・荒尾市荒尾

 

三郷町立野への農住団地建設計画モデル地区指定を、秩序立った開発のための好機と捉え、1972年に立野農住土地区画整理組合を設立して農住団地建設を推進しました。

 

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農住団地の建設が進む。今昔マップより。

 

そして、土地区画整理組合の誘致運動によって、立野地区を通過するJR関西本線に1980年に三郷駅が開設され、三郷駅(農住団地)と信貴山下駅三郷町役場)を結ぶバス路線*2が開業しました。
そして、1981年に晴れて農住団地が入居開始し、1984年には奈良産業大学(現・奈良学園大学)が開学しました。

 

しかしながら、当初の農住団地は低層住宅地化を目指して第2種低層住居専用地域に指定されたため、農地と比べて生産性に差がつかず、宅地内に農地が残存してしまいました。

このため、三郷町は1995年に農住団地の第2種中高層住宅専用地域への用途変更を行い、さらなる生産性の向上を狙って現在に至ります。

 

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三郷駅周辺に桃色の近隣商業地域が、農住団地全域に黄緑色の中高層住居専用地域が広がり、緑色の低層住居専用地域は見られない。三郷町/都市計画・建築・開発より。

 

参考

*1:奈良県三郷町に限らず3か村が合併して三郷(さんごう・みさと)を名乗る例は多く、埼玉県三郷市山梨県市川三郷町などがあります。

*2:奈良交通15系統。2015年に廃止されました。