うみのおと

まちのこと ひとのこと うみのこと

筑紫

地方自治法に以下の条文があります。

第八条 市となるべき普通地方公共団体は、左に掲げる要件を具えていなければならない。
一 人口五万以上を有すること。
二 当該普通地方公共団体の中心の市街地を形成している区域内に在る戸数が、全戸数の六割以上であること。
三 商工業その他の都市的業態に従事する者及びその者と同一世帯に属する者の数が、全人口の六割以上であること。
四 前各号に定めるものの外、当該都道府県の条例で定める都市的施設その他の都市としての要件を具えていること。

 

福岡市の南に位置する那珂川町は、福岡市のベッドタウンとして人口が増加し、2015年の国勢調査で人口が5万人を突破したため、2018年に市制を施行し晴れて那珂川市となりました。

 

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博多南駅。1990年に開業し、那珂川町の発展を牽引した。

 

しかし、那珂川市誕生の影で、所属する町村を失った筑紫郡が消滅しました。

これを受けて、ネット上には「歴史ある筑紫郡」の消滅を悲しむ声がちらほら見られました。

ですが、本当に筑紫郡は歴史ある地名なのでしょうか?

 

 

1. 筑紫国

筑紫という地名の歴史は古く、国産み神話に遡ることができます。

たとえば、古事記に以下の一節があります。

 

於是、二柱神議云「今吾所生之子、不良。猶宜白天神之御所。」卽共參上、請天神之命、爾天神之命以、布斗麻邇爾上此五字以音ト相而詔之「因女先言而不良、亦還降改言。」故爾反降、更往廻其天之御柱如先、於是伊邪那岐命先言「阿那邇夜志愛袁登賣袁。」後妹伊邪那美命言「阿那邇夜志愛袁登古袁。」如此言竟而御合生子、淡道之穗之狹別嶋。訓別、云和氣。下效此。次生伊豫之二名嶋、此嶋者、身一而有面四、毎面有名、故、伊豫國謂愛上比賣此三字以音、下效此也、讚岐國謂飯依比古、粟國謂大宜都比賣此四字以音、土左國謂建依別。

次生隱伎之三子嶋、亦名天之忍許呂別。許呂二字以音。次生筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別自久至泥、以音、熊曾國謂建日別。曾字以音。次生伊伎嶋、亦名謂天比登都柱。自比至都以音、訓天如天。次生津嶋、亦名謂天之狹手依比賣。次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋、亦名謂天御虛空豐秋津根別。故、因此八嶋先所生、謂大八嶋國。

 

イザナギイザナミの二神が、

  1. 淡路島
  2. 四国島
  3. 隠岐島
  4. 九州島
  5. 壱岐島
  6. 対馬島
  7. 佐渡島
  8. 本州島

大八島を産んだとき、4番目の島として筑紫島(九州島)を産んだ記述があります*1

 

しだいに、筑紫島(九州島)の一地域である白日別が、筑紫国を名乗って成立し、筑紫筑紫島の一部を指す広域地名へと縮小します。

さらに、7世紀末に筑紫国筑前国筑後国に分割されると、筑紫筑前国御笠郡の筑紫神社周辺を指す小地名に縮小します。

しかし、このとき筑紫郡はまだ存在していません。

 

2. 筑紫郡

奈良時代令制国が定められたとき、徴税などを所掌する下位行政区画として郡が設けられ、那珂川市をはじめとする那珂川流域には那珂郡が設けられました。

しかし、11世紀に入って荘園が台頭すると、郡は単なる地理区画に成り下がり、明治時代まで大きく変化することなく保存されました。

しかし、1878年に郡区町村編制法が制定されて、府県の下位行政区画として郡がフィーチャーされました。

ですが、郡は奈良時代の人口分布をもとに制定されたままの姿を留めており、明治時代の人口分布にそぐいません*2

このため、郡区町村編制法には以下の条文が設けられました。

第三条 郡ノ区域広濶ニ過キ施政ニ不便ナル者ハ一郡ヲ画シテ数郡トナス(東西南北上中下某郡ト云カ如シ)

第五条 毎郡ニ郡長各一員ヲ置キ毎区ニ区長各一員ヲ置ク郡ノ狭少ナルモノハ数郡ニ一員ヲ置クコトヲ得

つまり、行政上の便を図るため、葛飾郡や伊那郡のような大郡は東西南北あるいは上下で分割する一方で、磐田郡や見島郡のような小郡は他の郡とともに管轄されたのです。

福岡県にも席田郡(現在の博多区の一部)のような小郡があり、御笠郡大野村雑餉隈に置かれた御笠席田那珂郡役所により御笠郡・那珂郡とともに管轄されることとなりました。

 

行政区画としての郡はますますフィーチャーされ、1896年に福岡県で郡制が施行されました。この郡制により、これまでともに管轄されていた那珂郡・御笠郡・席田郡は合併することとなり、新しい郡名は御笠郡内の筑紫神社筑紫の地名の由来であることからとられて、筑紫郡命名されました。

このように、筑紫郡は登場してからわずか100年あまりの新しい地理区画です。どうやら、歴史があるとは言えなさそうです。

 

3. 行政区画と地名

それでは、どうして筑紫郡が歴史ある地名として認識されたのでしょうか。筑紫郡のその後を追ってみましょう。

 

町村以上府県未満の行政区画としてフィーチャーされた郡でしたが、蓋を開けると単に行政の煩雑化をもたらしただけでした。

このため、1923年に郡制は廃止され、郡は再び地理区画に戻ります。

しかし、町村の上位地理区画として残存しつづけたため、町村の住所を書くときは、所属郡を示す必要が残りました。

筑紫郡はわずか100年余りの地理区画でしたが、それでも住所を書くたびにつきまとい、住民にとっては福岡県や那珂川町と同等の地理区画だったのでしょう。

この煩雑ながらも湧いてしまった郡名への愛着が、筑紫国という古地名と混同され、「歴史ある」と評されたのではないでしょうか。

 

参考

*1:日本書紀にも国産み神話の記述がありますが、書によって国産みの順番が異なります。

*2:奈良時代の人口中心であった奈良県は、明治時代には全国最低レベルの人口まで落ち込み、一時は堺県に併合されていたほどでした。

東旭川

旭川は北海道第二の都市です。

 

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旭川のメインストリート平和通買物公園。奥に旭川駅が見える。

 

旭川市街地から旭山動物園へ向かう道すがら、東旭川というまちを通ります。

 

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東旭川市街地。

 

一見、なんの変哲もない方角地名にみえる東旭川ですが、実は旭川の地名を巡って一悶着あったのです。

 

 

1. 旭川兵村

1886年空知川上流部の上川を北海道内陸の開拓の拠点と考えた北海道は、知来別(現・三笠)〜忠別太(現・旭川)間を開削し、空知から上川へ至る上川道路を敷設しました。

 

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上川は四方へ開拓を進める拠点に相応しい。赤色立体地図より。

 

上川道路に沿って北海道内陸部への入植が進み、1890年に旭川が開村します。

さらに1892年には、上川盆地の開墾を進めるため、旭川東郊に屯田兵第三大隊第三中隊・第四中隊が200戸ずつ入植し、旭川兵村が開村します。

この旭川兵村には、1892年に旭川小学校が、1893年旭川神社が設けられるなど、本村を出し抜いて発展していきます。

 

2. 旭川

旭川兵村に押されぎみだった本村でしたが、逆転のチャンスが訪れます。

1895年に日清戦争終戦し、日本は次なる日露戦争を見据えて、国防の強化に取り組みます。

翌1896年には対露前線となる北海道に第7師団を編制し、ほとんどの連隊が旭川に駐留することとなりました。

 

このとき、旭川旭川兵村が紛らわしかったのでしょうか。

1897年に北海道は旭川兵村をウシシュベツに改称したうえで、永山村に編入しました。

 

3. 東旭川

ウシシュベツへの改称ならびに永山村への編入は、旭川兵村にとって寝耳に水でした。

このため、旭川兵村では反対運動が沸き起こります。

翌1898年、北海道は反対運動に押される形で、永山村から東旭川を分村しました。

さらに、既に設置されている旭川小学校旭川神社については、引き続き旭川の名を冠してよいと告示しました。

こうして、旭川旭川の字を留めることができました。

 

夕張や室蘭など、北海道には地名の指し示す範囲が移ってしまった移転地名が多くあります。

これらの地名の移転的にはそれぞれ、大夕張や元室蘭といった地名が残っており、東旭川もその一つであると言えるでしょう。

 

参考

 

日比谷

日比谷は東京都千代田区のローカルな地名です。しかしながら、日比谷公園や日比谷通り、東京メトロ日比谷線や2018年開業の東京ミッドタウン日比谷などで、東京に在住したことがなくてもこの地名を聞いたことがある人は少なくないのではないでしょうか。

ところで、日比谷とはどこでしょう。日比谷駅東京ミッドタウン日比谷千代田区有楽町一丁目に所在しますし、日比谷公園千代田区日比谷公園に所在して、実は千代田区日比谷という地名は存在しないのです。

 

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日比谷。各省庁の名と日比谷公園の文字が目立つ。地理院地図より。

 

今回は日比谷と銘打ってみましたが、千代田区日比谷公園および霞ヶ関一丁目の正方形区画に限って話したいと思います。

現在は官庁街や日比谷公園が所在するこの区画。実は、外務省によってつくられたのです。

 

 

1. 本丸官庁集中計画

明治維新によって明治政府が誕生しました。新政府に設けられた各省庁は、政府に召し上がられた藩屋敷を転用して庁舎を設けたため、各地に点在していました。

1872年、政府は天皇親政のため皇城本丸に官庁を集中するよう命じましたが、結局着工されることはありませんでした。

1875年に皇城が焼失すると、再び本丸への官庁集中を計画しましたが、皇城の地盤が軟弱であることが判明します。

官庁集中計画では堅牢な官庁が密集するため、頑丈な地盤が不可欠です。どうやら、皇城への官庁集中計画は諦めないといけないようです。

 

2. 日比谷官庁集中計画

さて、明治政府にとって、治外法権を撤廃し、対等な国交を樹立するための条約改正は、国家の命運を左右する一大プロジェクトでした。

条約改正の全権を担った外務大臣井上馨は、1886年の条約改正会議に向けて、欧米諸国と対等に渡り合えるよう欧化政策をとります。

そして、欧化政策の舞台として仕立て上げられたのが、1871年に外務省庁舎が移転してきた日比谷でした。

 

まずは、1880年に内幸町の薩摩藩屋敷跡に外国人接待所を建設し、1883年に鹿鳴館を落成させました。

さらに、翌1884年には日比谷への官庁集中を建議し、1886年に官庁集中計画を所掌する臨時建築局を設置、井上馨が総裁となりました。

臨時建築局は、外務省庁舎と鹿鳴館の間に広がる陸軍日比谷練兵場への官庁集中を設計し、陸軍省に陸軍日比谷練兵場の移転を要請しました。

この要請を受けて、1888年に陸軍日比谷練兵場は青山に移転します。

 

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陸軍日比谷練兵場が外務省庁舎と鹿鳴館の間に広がる。外務省庁舎の北には教導団の兵営があった。東京測量図原図より。

 

こうして、外務省は日比谷に広大なキャンバスを手に入れました。

この陸軍日比谷練兵場跡地には、ロの字に庁舎を配置し、中心に庭園を開ける配置が計画されました。

海軍省 司法省 農商務省・文部省
裁判所             特許局・東京府
大蔵省 警視庁 内務省

 

これから、欧化政策の夢が描かれるはずだったのです。

 

しかし、井上馨不平等条約の改正に失敗します。1887年、この責任を取って井上馨外務大臣ならびに臨時建築局総裁から退きました。

そして、トップを失った日比谷への官庁集中計画は、内務省に移管されました。

 

3. 日比谷官庁集中計画(内務省

官庁集中計画は内務省に引き継がれ、1888年司法省庁舎が起工しますが、またしても問題が現れます。

 

陸軍日比谷練兵場跡地の海手は、江戸初期に神田川の河口を埋め立てた土地で、頑丈な砂礫層の上には軟弱関東ローム層がぶ厚く堆積していました。このような土地に堅牢な官庁舎を建設するには、砂礫層に到達する長い杭を打つか、関東ローム層に多くの摩擦杭を打つ必要があり、いずれにせよ費用がかさみます。

 

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陸軍用地の山手は黄色で示される砂礫層海手半分は黄緑色で示される関東ローム層だった。また、永田町は茶色で示される麹町台地に位置する。治水地形分類図より。

 

このため内務省は、海手の軟弱地は公園地とし、司法省・大審院海軍省山手の頑丈地に、残りの官庁はより山手の麹町台地へ建設する計画に変更しました。

そして、1894年に海軍省庁舎が、1895年に司法省庁舎が、1896年に大審院庁舎が山手に完成し、日比谷への官庁集中計画は外務省の予想だにしない形で終わったのです。

 

司法省 (司法省) 都立
大審院               日比谷
海軍省               公園

 

4. 日比谷公園

東京市海手の軟弱地日比谷公園を造成するため、陸軍日比谷練兵場跡地を取得したのは1893年のことでした。
しかし、翌1894年に日清戦争が勃発すると、公園事業は凍結され、公園地は陸軍省に貸し出されてしまいます。
1898年に陸軍省から公園地が返還され、東京市はようやく日比谷公園の造成に着手しました。

日比谷公園東京市ではじめての欧風公園であったため、いくつもの設計案が棄却され、着工に4年、建設に2年を要しましたが、1903年になんとか開園することができました。

噴水広場から日比谷公会堂にかけて広大な運動場を描いた日比谷公園には、開園直後、多くの見物客が訪れたそうです。

 

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山手の司法省・大審院海軍省海手日比谷公園。外務省の計画は思わぬ形で決着を見た。今昔マップより。

 

5. 中央合同庁舎

1945年に第二次世界大戦終戦し、日比谷の一角にあった海軍省が廃止されました。この海軍省本館の跡地に、1954年、戦後初の本格的官庁建築である中央合同庁舎第1号館が完成し、農林水産省林野庁水産庁が入居しました。

 

海軍省の他の建物は厚生省に利用されていましたが、やがて庁舎が手狭になったため、1973年に中央合同庁舎第5号館が計画されました。しかし、オイルショックに伴う建築費高騰のために建設が中断し、1983年に建てられました。

中央合同庁舎第5号館本館には、厚生省のほか、大手町の労働省と麻布台の国土庁、暫定的に中央合同庁舎第4号館に仮入居していた環境庁が入居し、中央官庁を霞ヶ関に集中するという中央官衙の目的は概ね達成されました。

第5号館は官庁営繕部初の超高層庁舎であるだけでなく、厚生省が入居することから身体障害者対策モデル庁舎として、国土庁が入居することから耐震庁舎として、環境庁が入居することから省エネルギー対策モデル庁舎として設計されました。

また、中央合同庁舎第5号館別館は、東京家庭裁判所庁舎として1966年に完成し、現在は人事院が使用しています。

 

1948年に司法省から成立した法務省が位置する司法ブロックでは、ブロック内の老朽・狭隘や分散などにより整備が必要でした。庁舎を整理・集約するため、1984年に東京高等・地方・簡易裁判所合同庁舎、1990年に中央合同庁舎第6号館A棟、1994年には中央合同庁舎第6号館B・C棟が竣工しました。

 

法務省             都立
厚労省             日比谷
農水省             公園

 

こうして、日比谷は現在の姿に至ったわけです。官庁街と大公園、一見関連のないように思える2つの都市施設は、外務省によって企てられ、地盤によって打ち砕かれた夢の跡だったのです。

 

参考