うみのおと

まちのこと ひとのこと うみのこと

伊豆の国

○○市、東○○町、西○○町、南○○町。

○○に共通して入る地名はなんでしょうか。

 

答えは伊豆です。

これらの自治体は、いわゆる平成の大合併により、2005年に成立しました。この平成の大合併により、伊豆地域に成立した自治体の中でも異彩を放つのが、伊豆長岡韮山大仁町合併で成立した伊豆の国市ではないでしょうか。

それにしても、伊豆の国市なんて市名はどのように決定されたのでしょうか。今回は、平成の大合併で誕生した自治体名の話です。

 

1. 合併協議会

市名決定へのプロセスを追うには、合併協議会での協議内容を確認する必要があります。

平成の大合併で合併した市町村については、総務省合併デジタルアーカイブに合併時の資料がアーカイブ化されています。

ここで、伊豆の国市を検索してみると、伊豆長岡町・韮山町・大仁町合併協議会がヒットしました。伊豆の国市誕生の秘密はここに隠されているようです。

 

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2003年、伊豆長岡大仁町韮山の3町が対等合併し、新たな市が発足することが決定されました。

このとき、新たな市の名称は公募し、応募された候補を小委員会で検討した後、合併協議会において協議することとなりました。

 

新市名を2か月間公募したところ、全2922件、計493種類の応募がありました*1

そして、公募された名称の上位10点は、伊豆中央市伊豆長岡伊豆韮山伊豆北条市狩野川、狩野市、伊豆市源氏市田方市韮山でした。

 

しかしながら、赤字で示した伊豆長岡伊豆韮山韮山のように旧町名(伊豆長岡韮山大仁)を含む市名は、3町の対等合併という観点から避けられました。

また、青字で示した源氏市のように、地理的に3町をイメージしづらい名称も却下されました。 

そして、新市名称候補選定検討小委員会は、公募された市名の中から、伊豆中央市伊豆の国市伊豆北条市狩野川伊豆市田方市、田方野市の7候補を選定し、新市名称候補として合併協議会に提案しました。

ここで緑字で示したのは、公募名称の上位10位です。小委員会が選定した7候補は、地理的に新しい市をイメージでき、かつ公募による民意を反映したものとなっていることがわかります。

 

合併協議会では、これら7候補の中から多数決で上位2候補を決定し、この2候補のうちから新市名を決定する二回投票制*2を採用することが決定されました。

それでは、7候補の中から上位2候補を選定する第1回多数決です。

 

伊豆北条市 10

伊豆の国市 5

狩野川 5

伊豆中央市 3

伊豆市 1

田方市 1

田方野市 1

 

伊豆北条市がダントツの首位です。しかし、伊豆の国市狩野川がいずれも5票で次点が確定しません。

このため、次点候補を決定する多数決が行われました。

 

伊豆の国市 15

狩野川 9

無効票 1

 

これらの多数決により、2回目の多数決では、伊豆北条市伊豆の国市のうち票数の多いものを市名とすることになりました。果たして、結果はどうなるでしょうか。

 

伊豆の国市 12

伊豆北条市 10

棄権 2

欠席 1

無効票 1

 

おや、次点候補だった伊豆の国市が、伊豆北条市を抑えて最も多くの票を獲得しました。ということで、晴れて伊豆の国市が新市名に決定しました!!

 

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このように伊豆の国市は、2段階多数決による慎重な手続きを踏んで名称が決定されました。しかしながら、伊豆の国市というネーミングはあまりに突飛なような気がします。

たとえば、7候補のうちの伊豆中央市は、伊豆中央道や伊豆中央高校などの先例があって、いくぶん自然な市名に考えられます。

伊豆の国市にも先例があれば、いくらか受け入れやすいのですが…

 

実は伊豆の国市にも先例があったのです。

 

それは、農協です。

 

 

2. 農業協同組合

戦後、低下した農業生産力がもたらした食糧難は凄まじく、政府は食糧を統制管理する必要に迫られました。このため、1948年に各市町村の食糧管理窓口として発足したのが農業協同組合(農協)でした。

 

戦後復興の農業生産力向上により米の供給量が増加し、米離れの進行により米の需要量が減少すると、米が余りはじめました。

ところが、食糧管理制度は買取価格よりも売渡価格が安かったため、政府の赤字が拡大しました。

このため政府は、米の生産量抑制政策を1970年に開始しました。いわゆる減反です。このとき、食糧管理制度の窓口である農協が、減反政策の窓口としても機能しました。

 

しかし、食糧管理窓口としての農協に影が落とされます。

1991年、ウルグアイ・ラウンド農業合意が最終段階に到達し、米が自由食品となることが確定的となりました。政府による米の管理は終わりを告げ、食糧管理装置としての農協の役目は失われたのです。

このため、農協は経営の合理化を迫られます。1991年の第19回全国農協大会では、これまで各市町村ごとに組織されていた各農協を、事業が自己完結できる規模にまで合併させる方針が打ち出されました。


これは伊豆においても同様で、1993年に、JA戸田村、JA伊豆、JA土肥町、伊豆中央農協が合併して、戸田村(現・沼津市の一部)、修善寺町、天城湯ケ島町、中伊豆町土肥町(以上現・伊豆市)、伊豆長岡韮山大仁町(以上現・伊豆の国市)を管轄する新農協が誕生することになりました。

しかしながら、この合併では経営の自己完結が優先され、地域の枠組みがないがしろにされました。すると、管轄区域を地理的にイメージしやすいような新農協名の命名が困難になります。
このとき、命名されたのが、JA伊豆の国だったのです。

 

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JA伊豆の国

 

この農協の大合併によって、経営を合理化するため、これまでつながりの薄かった地域が統合され、新たな広域地名が生み出されました。

約10年後の平成の大合併でも、財政を合理化するため、これまでつながりの薄かった地域が統合されることとなりました。

このとき、新しい自治体名として農協合併によって誕生した新しい広域地名が採用されることも少なくありませんでした。

 

農協と自治体、一見関係の見えない両者も、経営合理化のための合併という共通点によって、類似した名称が与えられることがあるのです。

 

参考

 

*1:応募された493種類の市名はこちら

*2:二回投票制は、過半数を獲得した候補が選出されるため、死票が抑えられるというメリットがあります。

上敷免

埼玉県深谷市上敷免。何の変哲も無い田園地帯に見えるこの景観は、一筋縄に形成されたものではありませんでした。

今回は、中央政府の思惑に振り回された農村のお話です。

 

1. 日比谷と煉瓦

明治政府にとって不平等条約の改正は喫緊の課題で、条約改正を控えた明治政府は、権威づけのため日比谷に煉瓦造庁舎を集中させる官庁集中計画を計画しました。

この計画には膨大な量の煉瓦が必要でした。しかし、当時は煉瓦が手作りで製造されたため、一つ一つの大きさがまちまちで、品質の面でもとうてい高層建築に使用できる代物ではありませんでした。ですので、煉瓦製造の機械化が望まれましたが、官営工場を設立する余裕など政府にはありません。
このため、政府は製品は「7%の利益を加えて臨時建築局が買い上げること」、「外国人技師を政府が派遣すること」を条件に煉瓦製造業者を呼びかけました。


この呼びかけに応じたのが、千葉財界の有力者であった池田英亮と隈山尚徳でした。彼らは煉瓦製造経験を糧に、千葉県下での煉瓦製造を企図しました。

さらに明治政府は、渋沢栄一に機械式煉瓦工場の設立を要請しました。要請を受けた渋沢は、三井物産の益田孝とタッグを組み、故郷である埼玉県榛沢郡への工場設置を企図しました。
そして、池田・隈山氏の事業と渋沢・益田氏の事業を統合して日本煉瓦製造が設立され、工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(現・深谷市)に設置されることとなりました。

 

工場が位置する上敷免村は、小山川の氾濫原に位置し、小山川が氾濫するたびに粘土が堆積しました。上敷免では、この粘土を用いた瓦製造が盛んでしたが、土壌が粘土質なので水田を設けることはできず、畑地が広がっていました*1

 

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関東迅速測図より。上敷免村周辺には未及畑が広がり、黄色で表される田があまり見られない。

 

このため日本煉瓦製造は、原料粘土を工場周辺の畑地から無償で採掘する代わりに、粘土を掘り尽くした土地は水田にして返却する約束を交わしました。

 

 

しかし、明治政府による不平等条約の改正は失敗に終わります。そして、日比谷への官庁集中計画は頓挫、日本煉瓦製造への発注も立ち消えになってしまいました。唐突にハシゴを外された日本煉瓦製造には、辺鄙な土地に設けられた工場だけが残され、先の経営が不透明となります。

さらに、工場の操業が開始した1899年に小山川が氾濫します。この氾濫で、氾濫原に設けられた工場は浸水、日本煉瓦製造は多難な船出を切ったのです。

 

2. 碓氷峠と煉瓦

設立当初から窮地に追い込まれた日本煉瓦製造でしたが、救いの手が差し伸べられます。

 

近代化を目指す明治政府にとって、鉄道網の敷設は急務でした。五港の一つである新潟へ鉄道を敷設するため、上野横川駅間ならびに軽井沢直江津駅間が開通しましたが、ここで大きな壁にぶつかります。

横川軽井沢駅間にそびえる碓氷峠は、直線距離10kmの間に552mもの標高差があります。単に峠があるだけならば、トンネルを掘るだけで済むのですが、碓氷峠は両者の標高が大きく異なる片峠で、どうしてもこの標高差を上りきる必要があるのです。

 

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スーパー地形アプリより。横川軽井沢間の碓氷峠。峠の両側で標高の異なる片峠。

 

1890年に碓氷峠への鉄道敷設が決定されましたが、当時の機関車の能力では、この急勾配にはとうてい対処できません。このため、横川軽井沢駅間はラック式鉄道が採用されました。

通常の鉄道は滑らかな2本のレール上を滑らかな車輪が転がって進みます。ラック式鉄道は、2本のレールの間に歯型のレールを設け、車両に設けた歯車と嚙みあわせることで急勾配を登り降りする推進力を手に入れます。

このためラック式鉄道は、列車の推進力を受ける道床がじゅうぶん頑丈である必要があります。たとえば、鋼桁では強度が足りないので、丈夫なレンガ製アーチが必要だったのです。

このとき、煉瓦の供給元として選ばれたのが、碓氷峠にほど近い日本煉瓦製造で、1891年から翌年にかけて煉瓦を納入しました。

しかし、碓氷峠への煉瓦の納入を終えると、また新たな壁にぶつかります。

 

3. 上敷免と煉瓦

日本煉瓦製造で製造されたレンガは小舟に積み込んで小山川を下り、利根川で大舟に積み替えて東京へ輸送しました。

しかし、碓氷峠の鉄道工事を受注すると、東京への輸送が減少したため、舟夫が離職し、船舶が老朽化してしまいました。このため、いざ東京へレンガを輸送するとなると数十日も要してしまい、輸送が追いつきません。需要に供給が間に合わず、日本煉瓦製造は500万個を超える在庫を抱えて生産ラインの縮小に追い込まれます。

これでは、せっかくの機械による大量生産も台無しです。需要に応じた供給を実現するため、1895年に工場と深谷駅を結ぶ上敷免鉄道を敷設し、鉄道で煉瓦を輸送しました。

その後、1897年ごろに洋風建築ブームが訪れると経営も上向き、日本煉瓦製造で製造された煉瓦は東京駅*2日本銀行旧館、法務省旧本館、旧三菱丸の内煉瓦街、旧丸ビル、東京裁判所、慶應大学図書館旧館、横浜開港記念館など日本各地の煉瓦建築に用いられ、日本煉瓦製造は日本最大の煉瓦工場となりました。

 

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今昔マップより。日本煉瓦製造を支えた上敷免鉄道。

 

しかし、1923年に関東大震災が発生します。

官庁集中計画や碓氷峠の鉄道工事、欧風建築ブームなど、煉瓦は不燃性と堅牢さを売りに普及した新建材でした。しかし、その耐震性は低く、関東大震災では多くの煉瓦建築が倒壊してしまいます。

関東大震災を機に多くの建築が、鉄筋コンクリート造に移行し、煉瓦の需要が激減しました。日本煉瓦製造はこれまでにない苦境に立たされます。

 

日本煉瓦製造は、煉瓦需要の低迷が続く中でも、道路舗装や建物の外壁、ガーデニング用の煉瓦など、需要の掘り起こしに取り組んできました。それでも、煉瓦需要の減少に歯止めがかからず、1975年に上敷免鉄道が廃止されました。さらに、安価な外国産煉瓦に打ち勝てないため煉瓦の輸入販売に専念しましたが、2006年に廃業します。

事業清算時に、8000㎡の土地と建物が深谷市に寄贈されました。国指定重要文化財を3つも抱える土地は、現在も深谷市によって保存されています。


さて、現在の上敷免を見てみましょう。

当初の約束通り、粘土を採掘した畑地は水田に転換されました。こうして掘り下げられた水田は周囲よりも一段低くなっています。

 

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植生図より。関東迅速測図と比べて緑色で表される水田が拡大していることがわかる。

 

上敷免に広がる水田は、一見すると何気ない田園風景です。しかし、この景観は日本の近代化がもたらしたものだったです。

 

参考

*1:深谷市はねぎの生産量が日本一ですが、この粘土質土壌がねぎの生育に適したのです。

*2:東京駅は日本最大の煉瓦建築です。1996年、深谷駅が改築されたとき、東京駅が日本煉瓦製造の煉瓦を使用していることにあやかり、深谷駅は東京駅を模した駅舎に改築されました。

伏見

京都市の南部に伏見というまちがあります。寺田屋月桂冠大倉記念館などの観光施設があり、龍馬ゆかりの地あるいは酒どころとして、今日も多くの観光客が訪れます。

 

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月桂冠大倉記念館

 

京都市:平成28年 京都観光総合調査についてによれば、2016年に京都市を訪れた日本人観光客5204万人のうち15.3%が伏見周辺を訪問しているので、年間800万人近くの日本人が訪れる、国内有数の観光地なのです。

伏見の歴史については、うしさんの伏見と印刷と音楽を!によくまとめられていますが、今回は水利の視点からこのまちを紐解いてみたいと思います。

 

 

話は戦国時代まで遡ります。

豊臣秀吉が指月山に伏見城を築いたのが、伏見のあけぼのでした。築城に合わせて、秀吉は伏見城下が交通の要衝となるように、交通路を再編しました。

陸上交通では、 巨椋池に小倉堤と豊後橋(現・観月橋)を築き、宇治を経由していた京奈間陸運を短絡しました。また、淀川左岸に文禄堤を築き、淀川を渡河しなければならなかった京坂間陸運を短絡しました。そして、いずれの短絡路も伏見を経由させました。

水上交通では、槇島堤を築いて巨椋池宇治川を分離させたうえ、淀堤を築いて宇治川と淀川を直結させました。この築造により、京坂間水運は巨椋池に進入せずにすみました。また、周辺の港を廃止して河港機能を集約させることで、伏見港は京への荷揚げ港として栄えました。宇治川巨椋池を貫通せず、北に迂回しているのは、秀吉のたくらみを受けてのものなのです。

 

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伏見みなと公園の淀川水運にちなんだモニュメント。

 

江戸時代に入ると、角倉了以が京から伏見に至る高瀬川を開削しました。すると、京坂間が一筋の水路で結ばれ、伏見港は京坂間の中継港として江戸・京・大坂の三都に次ぐ賑わいを見せました。

 

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高瀬川の終点に立つ記念碑。

 

明治時代に入ると、東京奠都により京都は人口減少と産業衰退の憂き目に遭いました。この退潮を好転させようと企てられたのが琵琶湖疏水です。さらに、琵琶湖疏水と濠川を結ぶ鴨川運河が開通し、京伏間水運が複線化されました。

鴨川運河の開通で、河床の浅い高瀬川水運は存続が危ぶまれます。高瀬川水運は、輸送物資を分担することで共存の道を模索しましたが、鉄道や道路など陸上交通への転換が進んだため、両水運の輸送量は激減し、高瀬川水運は廃止されてしまいます。

 

1885年、発達した低気圧が相次いで大阪を襲い、淀川の堤防が各所で決壊しました。この洪水で大阪府内では70000戸が浸水し、30万人もの人が被災しました。

この洪水を受けて、大阪府などの自治体が国に働きかけたため、1896年に河川法が制定されました。そして、河川法により新淀川の開削や宇治川の付替と巨椋池との完全分離などからなる淀川改良工事が行われ、大阪市街は水害の恐怖から解放されました。

この淀川改良工事は、河川史の転換点でした。近世までの河川工事はもっぱら利水機能の向上を目的としたものでした。確かに、豊臣秀吉の水系改造も角倉了以高瀬川開削も京都市琵琶湖疏水建造も、いずれも水利に主眼が置いています。淀川改修工事は利水機能よりも治水機能の向上を目指した、日本初の工事だったのです。

 

しかし、1917年の豪雨で木津川の流量が増加し、淀川の堤防が再び決壊します。さらに、木津川の出水が宇治川に及び、伏見でも三栖の堤防が決壊、伏見町内3500戸が浸水しました。伏見は高瀬川や濠川が宇治川派流に合流してから宇治川に流れ込み、河口に伏見港が存在する複雑な水理のため、単に堤防を修築すればいいというわけではありません。伏見は先の洪水の決壊箇所より上流に位置したため、淀川改良工事では改修の手が及んでいませんでした。今回の豪雨はそこを突いたのです。

この洪水を受けて、1918年から淀川改修増補工事が行われました。淀川では堤防の拡築が行われ、三川合流地点では背割堤を築造して三川いずれかの流量が増加しても他の川に影響が及ばないようにされました。

伏見でも治水事業が講じられます。伏見市街の浸水を防ぐため、観月橋三栖間の宇治川右岸に堤防が築かれました。この築堤により、宇治川派流の取水口として平戸樋門が設置されました。そして、新高瀬川と疏水放水路を開削し、出水時は平戸樋門を閉じて高瀬川と鴨川運河の流れを伏見西郊で放流させました。

 

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平戸樋門。

 

晴れて伏見市街も水害から解放されました。しかし、宇治川への築堤で伏見港への通航ができなくなりました。水を引き入れることで栄えた伏見のまちから水が奪われたのです。このため、伏見港を再興する動きが起こりました。さらに、日中関係が不安定になると、深草村の陸軍第16師団への輸送が拡大しました。その時勢下で伏見港を廃港するわけにもいかず、堤防の内側に伏見港を設ける計画が立てられます。

 

しかし、水位差が立ちはだかります。

 

堤防を新築して流路が直流化された宇治川は、河床が浸食されて水位が下がりました。すると、伏見市街が宇治川から隔絶されている間に4.5 mもの水位差が生じ、宇治川本流から伏見市街へ進入することができなくなっていたのです。

 

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宇治川から取水していたはずの平戸樋門だが、現在では宇治川へ放流している。

 

このような水位の異なる2つの水域を結ぶために設けられるのが閘門です。1929年に三栖閘門が竣工すると、伏見港は再興を遂げ、1934年には港湾法による地方港湾に指定されました。

 

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三栖閘門。

 

また、1935年の豪雨では鴨川が決壊し、京都市内50000戸が浸水しました(京都大水害)しかし、伏見では宇治川への築堤で宇治川からの逆流が、新高瀬川の開削で高瀬川からの流入がそれぞれ防がれ、大事を免れました。

 

大正時代に入り、伏見の酒造業が大幅な成長を遂げて町の経済が拡大すると、伏見市昇格への要望が高まりました。そして、1929年に市制を施行し、伏見市が誕生しましたが、伏見市誕生には京都市への合併を認めるという条件がついていました。それでも、伏見市京都市との合併を少しでも有利に進めるため市制を選んだのです。しかし、京都府はさらにしたたかでした。

伏見市は、平戸樋門や三栖閘門の整備で宇治川派流の流量が安定したため、宅地造成をねらった宇治川派流の埋め立てに着手しました。伏見市は、埋立地中書島遊郭への売却益を工事費に当てがおうとしましたが、伏見市京都市編入をねらう京都府は、埋立地遊郭地指定を認可しませんでした。折しも昭和恐慌と重なり、埋立地の売却益は工事費を大きく下回り、伏見市は歳入欠陥に見舞われます。そして1931年、伏見市はわずか700日で京都市編入されることとなるのです。これは、戦前唯一の市市合併で、伏見市は史上最短命の市となりました。

 

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伏見市の命運を左右した宇治川派流。

 

淀川水運は、大戦末期には輸送力を失った鉄道に代わる交通手段として水運が注目され、1947年には伏見に船溜が設けられています。

 

しかし、水位差が再び立ちはだかります。


1953年に襲来した台風13号は、淀川水系に過去最大の出水をもたらしました。淀川三川が同時に氾濫したため、淀川改修増補工事も歯が立たず、淀川本川も氾濫してしまいます。ですが、河口から中流部までの治水事業は、これまでの改良工事で飽和しており、新たに堤防を築造するにも用地取得が困難です。そこで、上流にダムを設けて流量を調整する淀川水系改修基本計画が講じられました。こうして、高山ダム(木津川上流)、日吉ダム桂川上流)、天ヶ瀬ダム宇治川上流)が建設されました。さらに、伏見では宇治橋観月橋間で河床の浚渫や築堤が行われました。

すると、宇治川の水位はさらに低下し、宇治川の水位が伏見市街の水位を数mも下回ってしまいました。この水位差は閘門でも対応しきれず、天ヶ瀬ダムが完成した1964年、三栖閘門はわずか35年でその役目を終えました。

 

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三栖閘門に宇治川の流れが導かれることはない。対岸に目を移すと、河床低下の痕跡がうかがえる。


三栖閘門も地元の保存運動を受け、1998年に閘室に再び水が引き込まれ十石船の発着場として用いられています。さらに、2003年には操作室棟が三栖閘門資料館として整備され、伏見と水利の歴史を偲ぶことができます。

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エンジンを積み、生まれ変わった現代の十石船。


参考