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日比谷

日比谷は東京都千代田区のローカルな地名です。しかしながら、日比谷公園や日比谷通り、東京メトロ日比谷線や2018年開業の東京ミッドタウン日比谷などで、東京に在住したことがなくてもこの地名を聞いたことがある人は少なくないのではないでしょうか。

ところで、日比谷とはどこでしょう。日比谷駅東京ミッドタウン日比谷千代田区有楽町一丁目に所在しますし、日比谷公園千代田区日比谷公園に所在して、実は千代田区日比谷という地名は存在しないのです。

 

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日比谷。各省庁の名と日比谷公園の文字が目立つ。地理院地図より。

 

今回は日比谷と銘打ってみましたが、千代田区日比谷公園および霞ヶ関一丁目の正方形区画に限って話したいと思います。

現在は官庁街や日比谷公園が所在するこの区画。実は、外務省によってつくられたのです。

 

 

1. 本丸官庁集中計画

明治維新によって明治政府が誕生しました。新政府に設けられた各省庁は、政府に召し上がられた藩屋敷を転用して庁舎を設けたため、各地に点在していました。

1872年、政府は天皇親政のため皇城本丸に官庁を集中するよう命じましたが、結局着工されることはありませんでした。

1875年に皇城が焼失すると、再び本丸への官庁集中を計画しましたが、皇城の地盤が軟弱であることが判明します。

官庁集中計画では堅牢な官庁が密集するため、頑丈な地盤が不可欠です。どうやら、皇城への官庁集中計画は諦めないといけないようです。

 

2. 日比谷官庁集中計画

さて、明治政府にとって、治外法権を撤廃し、対等な国交を樹立するための条約改正は、国家の命運を左右する一大プロジェクトでした。

条約改正の全権を担った外務大臣井上馨は、1886年の条約改正会議に向けて、欧米諸国と対等に渡り合えるよう欧化政策をとります。

そして、欧化政策の舞台として仕立て上げられたのが、1871年に外務省庁舎が移転してきた日比谷でした。

 

まずは、1880年に内幸町の薩摩藩屋敷跡に外国人接待所を建設し、1883年に鹿鳴館を落成させました。

さらに、翌1884年には日比谷への官庁集中を建議し、1886年に官庁集中計画を所掌する臨時建築局を設置、井上馨が総裁となりました。

臨時建築局は、外務省庁舎と鹿鳴館の間に広がる陸軍日比谷練兵場への官庁集中を設計し、陸軍省に陸軍日比谷練兵場の移転を要請しました。

この要請を受けて、1888年に陸軍日比谷練兵場は青山に移転します。

 

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陸軍日比谷練兵場が外務省庁舎と鹿鳴館の間に広がる。外務省庁舎の北には教導団の兵営があった。東京測量図原図より。

 

こうして、外務省は日比谷に広大なキャンバスを手に入れました。

この陸軍日比谷練兵場跡地には、ロの字に庁舎を配置し、中心に庭園を開ける配置が計画されました。

海軍省 司法省 農商務省・文部省
裁判所             特許局・東京府
大蔵省 警視庁 内務省

 

これから、欧化政策の夢が描かれるはずだったのです。

 

しかし、井上馨不平等条約の改正に失敗します。1887年、この責任を取って井上馨外務大臣ならびに臨時建築局総裁から退きました。

そして、トップを失った日比谷への官庁集中計画は、内務省に移管されました。

 

3. 日比谷官庁集中計画(内務省

官庁集中計画は内務省に引き継がれ、1888年司法省庁舎が起工しますが、またしても問題が現れます。

 

陸軍日比谷練兵場跡地の海手は、江戸初期に神田川の河口を埋め立てた土地で、頑丈な砂礫層の上には軟弱関東ローム層がぶ厚く堆積していました。このような土地に堅牢な官庁舎を建設するには、砂礫層に到達する長い杭を打つか、関東ローム層に多くの摩擦杭を打つ必要があり、いずれにせよ費用がかさみます。

 

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陸軍用地の山手は黄色で示される砂礫層海手半分は黄緑色で示される関東ローム層だった。また、永田町は茶色で示される麹町台地に位置する。治水地形分類図より。

 

このため内務省は、海手の軟弱地は公園地とし、司法省・大審院海軍省山手の頑丈地に、残りの官庁はより山手の麹町台地へ建設する計画に変更しました。

そして、1894年に海軍省庁舎が、1895年に司法省庁舎が、1896年に大審院庁舎が山手に完成し、日比谷への官庁集中計画は外務省の予想だにしない形で終わったのです。

 

司法省 (司法省) 都立
大審院               日比谷
海軍省               公園

 

4. 日比谷公園

東京市海手の軟弱地日比谷公園を造成するため、陸軍日比谷練兵場跡地を取得したのは1893年のことでした。
しかし、翌1894年に日清戦争が勃発すると、公園事業は凍結され、公園地は陸軍省に貸し出されてしまいます。
1898年に陸軍省から公園地が返還され、東京市はようやく日比谷公園の造成に着手しました。

日比谷公園東京市ではじめての欧風公園であったため、いくつもの設計案が棄却され、着工に4年、建設に2年を要しましたが、1903年になんとか開園することができました。

噴水広場から日比谷公会堂にかけて広大な運動場を描いた日比谷公園には、開園直後、多くの見物客が訪れたそうです。

 

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山手の司法省・大審院海軍省海手日比谷公園。外務省の計画は思わぬ形で決着を見た。今昔マップより。

 

5. 中央合同庁舎

1945年に第二次世界大戦終戦し、日比谷の一角にあった海軍省が廃止されました。この海軍省本館の跡地に、1954年、戦後初の本格的官庁建築である中央合同庁舎第1号館が完成し、農林水産省林野庁水産庁が入居しました。

 

海軍省の他の建物は厚生省に利用されていましたが、やがて庁舎が手狭になったため、1973年に中央合同庁舎第5号館が計画されました。しかし、オイルショックに伴う建築費高騰のために建設が中断し、1983年に建てられました。

中央合同庁舎第5号館本館には、厚生省のほか、大手町の労働省と麻布台の国土庁、暫定的に中央合同庁舎第4号館に仮入居していた環境庁が入居し、中央官庁を霞ヶ関に集中するという中央官衙の目的は概ね達成されました。

第5号館は官庁営繕部初の超高層庁舎であるだけでなく、厚生省が入居することから身体障害者対策モデル庁舎として、国土庁が入居することから耐震庁舎として、環境庁が入居することから省エネルギー対策モデル庁舎として設計されました。

また、中央合同庁舎第5号館別館は、東京家庭裁判所庁舎として1966年に完成し、現在は人事院が使用しています。

 

1948年に司法省から成立した法務省が位置する司法ブロックでは、ブロック内の老朽・狭隘や分散などにより整備が必要でした。庁舎を整理・集約するため、1984年に東京高等・地方・簡易裁判所合同庁舎、1990年に中央合同庁舎第6号館A棟、1994年には中央合同庁舎第6号館B・C棟が竣工しました。

 

法務省             都立
厚労省             日比谷
農水省             公園

 

こうして、日比谷は現在の姿に至ったわけです。官庁街と大公園、一見関連のないように思える2つの都市施設は、外務省によって企てられ、地盤によって打ち砕かれた夢の跡だったのです。

 

参考

「力あわせる二百万」

これは、群馬県の郷土かるたである「上毛かるた」の『ち』の読み札です*1

今回は、郷土かるたについてのお話です。

 

 

1. 上毛かるた

まずは郷土かるたの草分けである上毛かるたの誕生を紐解いてみましょう。

 

群馬県長野原町出身の浦野匡彦は、満州国から故郷である群馬に引き揚げました。

しかし、敗戦した日本では、GHQにより修身・日本歴史・日本地理の授業が停止され、新しい教科書の作成が指示されていたところでした。

郷土愛の強い浦野は、子供たちには群馬の歴史、文化を伝えたい、という思いを募らせました。

 

そんな中、前橋市で開かれた引揚者大会で、浦野は安中出身のキリスト教伝道者、須田清基と出会い、かるたを通じて群馬の歴史、文化を伝えることを提案されました。

そして1947年、上毛新聞に上毛かるた構想を発表し、県民からその題材を募りました。

 

郷土史家や文化人ら18人からなる編纂委員会によって44の句が選ばれ、絵札を画家の小見辰男に、読み札裏の解説を歴史研究家の丸山清康に依頼し、初版12000組が発売されました。

浦野は群馬文化協会の初代理事長となり、上毛かるたの発行を続けました。しかし、会員の高齢化から群馬文化協会は2013年に解散し、上毛かるた著作権・商標権は群馬県に無償で譲渡されました。

 

また、上毛かるたの特徴は県を挙げた競技大会です。

上毛かるたの発売の翌年、1948年には第一回上毛かるた競技県大会が前橋市の商工クラブで開催されました。その後、何回か会場を変えながら、現在は前橋市の県立武道館で開催されています。

この大会の出場者は県内に住む小中学生です。毎年9万人の選手は、2月の県大会に向けて、前の年の12月の各地区の子供会や小中学校で地区予選でしのぎを削ります。そして、地区予選を勝ち抜いた選手が各郡市の大会に出場し、そこでの勝者わずか300人ほどが県大会に出場し、小学校低学年、小学校高学年、中学校の3つの部門について個人・団体の優勝者を決定します。

9万分の6、そのあまりにも狭き門は郷土教育の範疇をとっくにはみ出しているような気さえしてきます。

 

また、上毛かるたは郷土教育の一環ですので、競技大会は「群馬県下の小中学生」に限られました。

しかし、2012年にネットでの呼びかけによって発足した上毛かるた日本一へ! - KING OF JMK~おとな達の上毛かるた日本一決定戦~によって、2013年2月、銀座のぐんま総合情報センター『ぐんまちゃん家』で大人達による第1回上毛かるた全国大会が開催され、競技県大会に合わせた毎年2月に開催されています。

上毛かるたは郷土教育の資料から飛び出して、郷土の資源となっているのです。

 

2. 菱町

さて、上毛かるたの上毛とは、現在の群馬県域に相当する上野国の別称です。

この上野国は、古代の毛野国を東西に分割したもので、東半分は下野国、現在の栃木県に相当します。

そして、毛野国を東西に分割する際、国境として桐生川が選ばれました。

 

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毛野国に深く刻まれた桐生川。赤色立体地図より。

 

なるほど、境界として河川を選ぶのは非常に分かりやすいです。石狩川上の市町村界、千葉県と茨城県の県境、アルゼンチンとウルグアイの国境など、河川境界は決して珍しいものではありません。

しかし、これらの河川境界は中・下流域においての話です。幅広な川沿いに平地がゆったりと広がるうちは、両岸の往来は少ないためにそれぞれの岸で共同体が形成され、河川上におのずと境界線が形成されます。

しかし、険しい峡谷が続く上流部では、川を遡上する交通路が川の片側にしかないことも珍しくなく、両岸合わせた共同体が形成されることがしばしばです。

それは、桐生川上流でも同様でした。桐生川東岸に位置する栃木県菱村でも、多くの人が川を下って絹織物で栄えた群馬県桐生市に働きに出ました。栃木県の他都市に行くにしても、いつたん桐生川を下って桐生市まで出る必要があったのです。

追い討ちをかけたのが桐生川の管理でした。桐生川上に市町村界があったため、河川管理は財政的に負担だったため、桐生川西岸を擁する群馬県桐生市との越境合併を希望し、1959年に合併が成立しました。そして、桐生市の手によって水道敷設、橋の架け替え、団地造成などの事業がなされ、菱村は発展しました。

 

3. 菱町かるた

上毛かるた都道府県かるたの嚆矢でした。この上毛かるたに続けとばかりに、群馬県では郷土かるたの成立が相次ぎます。

しかしながら、菱町は下野国であり、上毛ではありません。

そこで1997年、菱町かるた作成委員会によって菱町かるたが作成されました。

そして、郷土かるたにはかるた大会が欠かせません。菱町かるたも、ご多聞に漏れず、年に1回のかるた大会が行われています。

 

都道府県・市町村はあくまで行政区分であって、実際の地理区分にそぐわないことも少なくありません。

ですが、郷土教育を担うのは行政であるため、あたかも行政区分が地理区分であるかのように扱われるケースが多いです。

人口8000人の町に生まれた郷土かるたは、群馬県であって上毛でない。そんな行政区分と地理区分が衝突した接触面に立ち上がった現象だったのです。

 

 

参考

 

*1:上毛かるたの絵札・読み札一覧はこちら

伊豆の国

○○市、東○○町、西○○町、南○○町。

○○に共通して入る地名はなんでしょうか。

 

答えは伊豆です。

これらの自治体は、いわゆる平成の大合併により、2005年に成立しました。この平成の大合併により、伊豆地域に成立した自治体の中でも異彩を放つのが、伊豆長岡韮山大仁町合併で成立した伊豆の国市ではないでしょうか。

それにしても、伊豆の国市なんて市名はどのように決定されたのでしょうか。今回は、平成の大合併で誕生した自治体の名称を巡る話です。

 

 

1. 合併協議会

市名決定へのプロセスを追うには、合併協議会での協議内容を確認する必要があります。

平成の大合併で合併した市町村については、総務省合併デジタルアーカイブに合併時の資料がアーカイブ化されています。

ここで、伊豆の国市を検索してみると、伊豆長岡町・韮山町・大仁町合併協議会がヒットしました。伊豆の国市誕生の秘密はここに隠されているようです。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

2003年、伊豆長岡大仁町韮山の3町が対等合併し、新たな市が発足することが決定されました。

このとき、新たな市の名称は公募し、応募された候補を小委員会で検討した後、合併協議会において協議することとなりました。

 

新市名を2か月間公募したところ、全2922件、計493種類の応募がありました*1

そして、公募された名称の上位10点は、伊豆中央市伊豆長岡伊豆韮山伊豆北条市狩野川、狩野市、伊豆市源氏市田方市韮山でした。

 

しかしながら、赤字で示した伊豆長岡伊豆韮山韮山のように旧町名(伊豆長岡韮山大仁)を含む市名は、3町の対等合併という観点から避けられました。

また、青字で示した源氏市のように、地理的に3町をイメージしづらい名称も却下されました。 

そして、新市名称候補選定検討小委員会は、公募された市名の中から、伊豆中央市伊豆の国市伊豆北条市狩野川伊豆市田方市、田方野市の7候補を選定し、新市名称候補として合併協議会に提案しました。

ここで緑字で示したのは、公募名称の上位10位です。小委員会が選定した7候補は、地理的に新しい市をイメージでき、かつ公募による民意を反映したものとなっていることがわかります。

 

合併協議会では、これら7候補の中から多数決で上位2候補を決定し、この2候補のうちから新市名を決定する二回投票制*2を採用することが決定されました。

それでは、7候補の中から上位2候補を選定する第1回多数決です。

 

伊豆北条市 10

伊豆の国市 5

狩野川 5

伊豆中央市 3

伊豆市 1

田方市 1

田方野市 1

 

伊豆北条市がダントツの首位です。しかし、伊豆の国市狩野川がいずれも5票で次点が確定しません。

このため、次点候補を決定する多数決が行われました。

 

伊豆の国市 15

狩野川 9

無効票 1

 

これらの多数決により、2回目の多数決では、伊豆北条市伊豆の国市のうち票数の多いものを市名とすることになりました。果たして、結果はどうなるでしょうか。

 

伊豆の国市 12

伊豆北条市 10

棄権 2

欠席 1

無効票 1

 

おや、次点候補だった伊豆の国市が、伊豆北条市を抑えて最も多くの票を獲得しました。ということで、晴れて伊豆の国市が新市名に決定しました!!

 

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このように伊豆の国市は、2段階多数決による慎重な手続きを踏んで名称が決定されました。しかしながら、伊豆の国市というネーミングはあまりに突飛なような気がします。

たとえば、7候補のうちの伊豆中央市は、伊豆中央道や伊豆中央高校などの先例があって、いくぶん自然な市名に考えられます。

伊豆の国市にも先例があれば、いくらか受け入れやすいのですが…

 

実は伊豆の国市にも先例があったのです。

 

それは、農協です。

 

 

2. 農業協同組合

戦後、低下した農業生産力がもたらした食糧難は凄まじく、政府は食糧を統制管理する必要に迫られました。このため、1948年に各市町村の食糧管理窓口として発足したのが農業協同組合(農協)でした。

 

戦後復興の農業生産力向上により米の供給量が増加し、米離れの進行により米の需要量が減少すると、米が余りはじめました。

ところが、食糧管理制度は買取価格よりも売渡価格が安かったため、政府の赤字が拡大しました。

このため政府は、米の生産量抑制政策を1970年に開始しました。いわゆる減反です。このとき、食糧管理制度の窓口である農協が、減反政策の窓口としても機能しました。

 

しかし、食糧管理窓口としての農協に影が落とされます。

1991年、ウルグアイ・ラウンド農業合意が最終段階に到達し、米が自由食品となることが確定的となりました。政府による米の管理は終わりを告げ、食糧管理装置としての農協の役目は失われたのです。

このため、農協は経営の合理化を迫られます。1991年の第19回全国農協大会では、これまで各市町村ごとに組織されていた各農協を、事業が自己完結できる規模にまで合併させる方針が打ち出されました。


これは伊豆においても同様で、1993年に、JA戸田村、JA伊豆、JA土肥町、伊豆中央農協が合併して、戸田村(現・沼津市の一部)、修善寺町、天城湯ケ島町、中伊豆町土肥町(以上現・伊豆市)、伊豆長岡韮山大仁町(以上現・伊豆の国市)を管轄する新農協が誕生することになりました。

しかしながら、この合併では経営の自己完結が優先され、地域の枠組みがないがしろにされました。すると、管轄区域を地理的にイメージしやすいような新農協名の命名が困難になります。
このとき、命名されたのが、JA伊豆の国だったのです。

 

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JA伊豆の国

 

この農協の大合併によって、経営を合理化するため、これまでつながりの薄かった地域が統合され、新たな広域地名が生み出されました。

約10年後の平成の大合併でも、財政を合理化するため、これまでつながりの薄かった地域が統合されることとなりました。

このとき、新しい自治体名として農協合併によって誕生した新しい広域地名が採用されることも少なくありませんでした。

 

農協と自治体、一見関係の見えない両者も、経営合理化のための合併という共通点によって、類似した名称が与えられることがあるのです。

 

参考

 

*1:応募された493種類の市名はこちら

*2:二回投票制は、過半数を獲得した候補が選出されるため、死票が抑えられるというメリットがあります。