うみのおと

まちのこと ひとのこと うみのこと

横浜

横浜市は幕末に開港した横浜港に端を発し、いまや日本最多の人口を誇る自治体です。

 

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横浜市のランドマーク、赤レンガ倉庫。

 

わずか150年の間に東京湾沿岸の漁村から日本屈指の大都市へと成長を遂げた横浜市、その都市史を公園から見てみましょう。

 

 

0. 横浜開港

1853年、ペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航し幕府に通商を迫りました。これを受けて、翌1854年の再来航時に横浜村で締結されたのが日米和親条約でした。

つづく1858年締結の日米修好通商条約において、神奈川の開港が定められましたが、幕府は東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊の開港を避け、対岸の横浜村に開港場を新設することを決定しました。

当時、横浜村は大岡川からの土砂が堆積した砂州上の漁村でしたが、本牧台地が南風を防ぐ利点がありました。このため、横浜沖はすぐに浚渫され、1859年に横浜港が開港しました。

 

1. 山手公園

こうして1859年に開港した横浜には、関内に外国人居留地日本人町が設けられました。しかし、当地の居留外国人を震撼させる事件が発生します。

1862年東海道を上る薩摩藩大名行列を遮ったイギリス人らが斬りつけられる生麦事件が発生したのです。

居留外国人の死傷事件を受けて、イギリス・アメリカ・フランスの欧米3か国は安全な行楽地として横浜山手に遊歩道と公共庭園の設置を幕府に要求しました。

遊歩道や公共庭園という概念すら存在しない当時の幕府にとって、欧米諸国の要求は異次元級そのものでしたが、各国の度重なる要望に折れた幕府は1866年に遊歩道を敷設し、1870年には山手公園を開園させました。

 

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山手居留地に開園した山手公園。関東迅速測図(農業環境技術研究所)より。

 

2. 横浜公園

居留外国人の受難は続きます。

1866年に関内の日本人町の失火による豚屋火事が発生すると、日本人町、外国人居留地もろとも焼き尽くされてしまいました。

この復興策として、1867年に山手に外国人居留地が設けられました。

つづいて1872年にかねてより居留外国人から移転を迫られていた港崎遊郭が移転し、その跡地に1876年、横浜公園が開園しました。

 

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関内中心部に開園した山手公園。公園の字が際立つ。関東迅速測図(農業環境技術研究所)より。

 

1978年に横浜公園に開設された横浜スタジアム横浜市HPより。

 

3. 掃部山公園

1881年、上野公園に井伊直弼像を建立するべく旧彦根藩士が立ち上がりましたが、薩長出身者が大勢を占める参議に公園の風致に関わるとして認められませんでした。

その後も旧彦根藩士は日比谷公園などの公園も検討しましたが、東京・京都・大阪の三都において公衆の往来する地に人物像を建立する場合は内務大臣の許可が必要だと定められ、三都への井伊直弼像建立の道は絶たれました*1

彦根藩士はそれでも諦めず、三都に次ぐ大都市・横浜に目をつけました。

1884年に不動山を買収して庭園を造成し、1909年に横浜開港50年を記念して念願の井伊直弼像を建立しました。

 

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不動山の尖端に開園した井伊家庭園。今昔マップとスーパー地形より。

 

井伊直弼像建立以降、不動山は直弼の官位である掃部頭にちなみ、掃部山と呼ばれるようになりました。

そして、1914年に井伊家からの寄付を受け、掃部山公園が開園しました。

 

4. 翁町公園

1921年大岡川沿いの廃道敷に横浜市初の児童公園である翁町公園が開園しました。

しかし、1945年の横浜大空襲で焼失し、戦災復興事業において廃園されました。

 

5. 震災復興事業

1923年の関東大震災横浜市街を直撃し、市街地の9割が焼失しました。

当時開園していた山手、横浜、掃部山、翁町の4園は火除地として機能しましたが、公園への避難が叶わず亡くなった被災者も少なくありませんでした。

 

そもそも、公園は都市問題を解決する社会装置としてヨーロッパで誕生しました。

しかしながら、生麦事件を受けて言われるがまま挿入された横浜の公園は、その意義も噛み締められないまま半世紀経ってしまいました。

関東大震災は公園が持つ減災機能を不幸な形で示してしまったのです。

 

こうして都市社会的意義が認められた公園は、震災復興事業において増設が決定され、横浜市横浜市児童遊園地を、復興局が野毛山、山下、神奈川の3園を開園させました。

 

山下公園の赤い靴履いてた女の子像。横浜市HPより。

 

また、震災で崩壊した施設の跡地を公園化するケースもあり、御大典記念の元町公園やキリン園公園などはその例です。

 

6. 防空緑地

戦争の激化に伴って防空体制が強化され、横浜市にも防空緑地が設けられました。

1941年に神奈川県によって三ツ池公園保土ヶ谷公園が都市計画決定されましたが、終戦に間に合わず一部の土地は農地解放されてしまう。このとき解放された農地の大半は取り戻すことができず、住宅団地になってしまいましたが、取り戻せた土地については、1950年から両緑地の整備が始まりました。

しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、保土ヶ谷公園は完成したばかりのサッカー場と工事中の運動広場の一部が防空陣地として駐留軍に接収され、1957年の返還を待つことになります。

また、1939年創建の神奈川県護国神社の外苑は、1942年に防空緑地として整備されました。1945年の空襲で護国神社が焼失した跡地は横浜市に譲渡され、1949年に三ツ沢公園が開園しました。

 

7. 防空公園

1942年、米軍による初の本土空襲(ドーリットル空襲)が行われ、わずか16機のB-25によって横浜をはじめとする日本各地の都市が空襲されました。

本土からできるだけ遠くで戦闘を行うことで本土を守る外征を展開していた日本陸軍にとって、この空襲は虚をつかれたものとなりました。

このため防空体制の強化が叫ばれ、横浜市についても、常盤、弘明寺綱島本牧神ノ木、岸根、子安台をはじめとする15園の防空公園が計画されました。

 

8. 陸軍陣地

しかしながら、戦局は悪化の一途を辿りました。

このため、見晴らしのよい丘陵地に、飛来機を攻撃する高射砲陣地が築かれることとなり、陸軍は野毛山などの既存公園や、子安台、岡村、岸根などの整備中防空公園を接収して、高射砲陣地を設置しました。 

米軍による本土空襲は、1944年に入るとさらに勢いを増し、さらなる防空体制の強化が求められました。

このため、京浜の防空を担当する高射第一師団が編成され、その下部組織として高射第一一七連隊が野毛山に発足しました。

 

9. 接収

1945年に第二次世界大戦終戦し、日本はGHQの占領下に置かれました。このとき、日本の占領任務を担った米第8軍は、司令部を横浜に設置し、横浜市街地の27%を接収しました。

日本での占領統治が安定するにつれて、各都市の接収は解除されましたが、横浜については1950年勃発の朝鮮戦争によって米軍兵器輸送基地として重視され、接収解除が遅れました。

1952年の接収解除地整備事業で岡野、関外、東神奈川の3地区の整備が決定しました。

接収解除された公園地には再び公園が整備され、元町、山手、富士見、花見台、岡村、山下などの公園が開園しました。

また、1962年開園の港の見える丘公園のように、接収解除の国有地が公園化されるケースも少なくありませんでした。

 

港の見える丘公園から横浜ベイブリッジを見る。横浜市HPより。

 

しかし、米軍から接収解除された高射砲陣地のうちのいくつかは自衛隊に引き継がれ、子安台や岸根などの各園の整備は自衛隊の撤退を待つことになります。

 

10. 横浜市六大事業

ここまで、横浜市関東大震災、昭和恐慌、空襲、接収、スプロール現象という艱難に見舞われていました。

この五重苦を克服するため、横浜市は1965年に以下の六大事業を提案しました。

  1. 都心部強化事業
  2. 金沢地先埋立事業
  3. 港北ニュータウン
  4. 高速道路(首都高速道路保土ヶ谷バイパス、南横浜バイパス等)
  5. 横浜市営地下鉄
  6. 横浜ベイブリッジ

それぞれどのような計画で、横浜市の公園計画にどのような影響を与えたのでしょうか。

 

10.1 都心部強化事業

開港以来、横浜の都心は伊勢佐木町でした。

しかし、接収解除後の再開発によって横浜駅周辺が栄え、横浜市には2つの都心が誕生しました。

新旧2つの都心を分断するように三菱重工業横浜造船所と掃部山が立ちはだかっており、都心間の交通は不便そのものでした。

 

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北の横浜駅と南の伊勢佐木町を分断する横浜造船所と掃部山。今昔マップとスーパー地形より。

 

この2都心を連結・強化しようとしたのが都心部強化事業です。

こうして、1983年に横浜造船所が移転し、1995年に高島操車場が廃止され、その跡地にみなとみらい21が設けられました。

こうして誕生したみなとみらい21には、赤レンガパーク、グランモール公園、高島中央公園、高島水際線公園、臨港パーク、象の鼻パーク、日本丸メモリアルパークハンマーヘッドパーク、新港パーク、運河パークなどの公園が設けられました。

 

10.2 金沢地先埋立事業

みなとみらいから移転した三菱重工業横浜造船所の受け皿として整備されたのが金沢地先でした。

 

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660万㎡に及ぶ一大埋立事業であった。今昔マップとスーパー地形より。

 

当事業によって造成された金沢地先には、三菱重工業横浜造船所のほか、横浜検疫所長浜措置場や在日米軍小柴貯油施設などの既存施設も立地しました。

また、金沢緑地、金沢埋立地水際線緑地、海の公園八景島富岡総合公園、富岡八幡公園、長浜公園の各公園が開園しました。

さらに、横浜検疫所長浜措置場跡地に1997年に長浜野口記念公園が開園しました。

また、2005年に返還された在日米軍小柴貯油施設跡地では公園整備計画が進行しています。

 

10.3 港北ニュータウン

高度経済成長期の横浜市は年間10万人ずつ人口が増加しており、スプロール現象が社会問題となっていました。

そこで、東急東横線東急田園都市線に挟まれた未開発地に居住環境の良い住宅街を計画したのが港北ニュータウンです。

 

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谷戸が展開する港北ニュータウン中心部。今昔マップとスーパー地形より。

 

当然ながら港北ニュータウンにも公園が整備され、1991年にせせらぎ公園が開園しました。

 

10.4 高速道路

高速道路の高架下に児童公園が開園しました。

 

10.5 横浜市営地下鉄

1973年、横浜市街を流れる吉田川、新吉田川を埋め立てた部分にブルーラインが開通しました。1978年、この上部に開園したのが大通り公園です。

 

10.6 ベイブリッジ

首都高速湾岸線の一部としてベイブリッジが開通しました。

 

11. 横浜港湾計画

近代横浜の膨張は鶴見・神奈川の埋め立てによってカバーされてきましたが、戦前から続く埋め立てはいよいよ飽和状態に達していました。

その一方で、横浜市街地の接収は未だ解除されず、横浜は深刻な残余地不足に悩まされました。

このため、横浜市は新たな港湾地区・工場地区を設けるため、1955年に大黒ふ頭、1959年に根岸湾、1966年に本牧ふ頭の埋め立てを開始ししました。
また、1973年の港湾法制定を受け、本牧、山下、新港、大黒ふ頭の各緑地が整備され、海釣り施設や展望タワーのような親水施設が設置されました。

 

12. 緑政局

高度経済成長期に入ると、横浜市は東京のベッドタウン化が進行し、1970年代には1年に10万人もの人口が横浜市流入しました。

この人口急増に蹂躙されるように、横浜の山林や農地が無秩序に開発されました。

過度なスプロール化を食い止めるため、横浜市は農地を所管する農政局と公園を所管する都市計画局公園部を1971年に合併させ、緑政局を発足させました。

 

13. 新横浜

横浜の新都心として新横浜が台頭しました。

鶴見川流域総合治水対策の一環として鶴見川多目的遊水地を兼ねる新横浜公園が1998年に開園し、日産スタジアム日産フィールド小机、野球場、テニスコート、運動広場が設けられました。

 

14. 立体都市公園

2009年開園のアメリカ山公園は、立体都市公園制度で整備されました。

元町・中華街駅を2階建から4階建へ増築して山手地区の緑地と一体的に公園として整備することで、公園を介して元町地区と山手地区を容易に往来できるようになりました。

 

参考

*1:当時の内務大臣は西郷従道。言うまでもなく旧薩摩藩士です

築地

反射炉とは、鉄を耐火レンガ造の炉で融解・鋳造するヨーロッパ発祥の技術です。
たたら製鉄や甑炉といった製鉄技術しか持ち得ず青銅砲が主流だった近世日本にとって、鉄製大砲を鋳造できる反射炉の建設は火急の課題でした。

この反射炉を日本で初めて築造したのは佐賀藩でしたが、どうして佐賀藩が先鞭をつけることができたのでしょうか。

 

 

1. アヘン戦争

1840年、清(現・中国)とイギリスの間でアヘン戦争が勃発し、1842年にイギリスが産業革命により蓄えた国力で清を圧勝して幕を閉じました。

眠れる獅子・清の敗北の報は各国に衝撃をもたらしました。当然ながら日本にも伝えられ、長崎警備を担当していた佐賀藩は、この事実に震撼し、1847年に幕府に海防強化を進言しました。

しかし、財政難に喘ぐ幕府にはそのような余力などなく、1849年に進言は却下されました。そこで、佐賀藩は独自に長崎の海防強化へ踏み切ることとなりました。

 

寛永(1624〜1645)年間に出島が築かれてからというもの、長崎海防は内目と呼ばれる長崎港内の警備が重視されており、長崎港に設けられた7つの台場も内目警備を重視したものでした。

この伝統的な警備方針に対して佐賀藩は、長崎港外の伊王島と神ノ島に台場を新設して、警備の重点を長崎港外(外目)に移すことを企図しました。

新たに増設される2台場には鉄製大砲の設置が計画されましたが、この鉄製大砲を鋳造するために作られたのが築地反射炉です。

 

2. 築地反射炉

反射炉とは、1500℃以上もの融点を有する鉄を、耐火レンガ造の炉で大量に鋳造するヨーロッパ発祥の技術です。

たたら製鉄や甑炉のような製鉄技術しか持ち得ず、青銅砲が主流であった当時の日本にとって、鉄製大砲の鋳造すなわち反射炉の建設は火急の課題でした。

しかしながら、反射炉を建設するためには、耐火レンガを生産する必要があります。

この耐火レンガが足かせでした。

 

忍び寄る列強諸国の脅威に備えるため、薩摩藩水戸藩においても、佐賀藩と同様に反射炉建設が計画されていました。しかしながら、これらの藩では良質なレンガを製造できず、鉄と共にレンガも融けてしまい、低純度の鉄しか得られませんでした。
一方、佐賀藩には、有田焼の技術と杵島郡藤津郡の良質な陶石がありました。

このため、晴れてレンガ製造に成功し、佐賀藩は諸藩に先駆けて反射炉を建設することができたのです。

 

1851年に操業を開始した築地反射炉は、幕府や諸藩から続々と鋳鉄大砲の注文を受け、大いに活躍しました。

また、佐賀藩自身も1851年に長崎の神ノ島と四郎ヶ島の間を埋め立て、長崎砲台を築造しました。

 

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神ノ島と四郎ヶ島の間を埋め立てて築造された長崎砲台。地理院地図より。

 

3. 多布施反射炉

1853年、ペリー提督率いる黒船が浦賀に来航し通商を要求しました。刻一刻と大きくなる列強諸国の脅威に対抗するため幕府は、品川台場の築造を決定し、佐賀藩にさらなる鉄製大砲を発注しました。

この大型発注は築地反射炉だけではとうてい捌ききれません。このため、佐賀藩は多布施反射炉を築造し、鉄製大砲の量産を急ぎました。

こうして製造された大砲は1855年に完成し、すみやかに品川砲台に据え付けられました。

 

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品川湾に築かれた6台場は江戸防衛最後の砦であった。今昔マップより。

 

このように培われた佐賀藩のノウハウをもとに、萩反射炉(1856年、世界遺産)、韮山反射炉(1857年、世界遺産)を筆頭に日本各地で反射炉が建造され、佐賀藩はその援助、技術提供などを行いました。

この反射炉建造を先駆けに、日本は欧米諸国に比肩する軍事力を獲得したのです。

 

4. 廃炉

操業を終えた築地反射炉は田畑に姿を変えたのち、明治40年代に土地が売却され、1912年には日新小学校が移転開校しました。

 

歴史の表舞台から降りた築地反射炉に再び脚光が当てられたのは戦後のことでした。

1967年に築地反射炉跡地は佐賀市の史跡に指定されたのです。この史跡指定を契機に、1975年には反射炉の復元模型が、翌1976年には鉄製24ポンドカノン砲の復元模型がそれぞれ落成し、カノン砲は新年を告げる祝砲として使われています。

 

参考

 

青森

青森市青森県の県庁所在地です。

今回は矢継ぎ早に変化する交通体系に翻弄されたまちの話です。

 

 

1. 青森港

1625年、弘前藩は幕府から江戸への津軽米の輸送を許され、太平洋海運への参加が促されました。

そこで、弘前藩は積み出し港として青森を整備し、青森は城下弘前に次ぐ人口を有する都市へと成長しました。

当初は津軽米の積み出し港として整備された青森でしたが、ロシアが不凍港を求めて東アジアへと勢力圏を拡大すると、蝦夷地(現・北海道)の地政学的重要性が増し、1865年に蝦夷地への渡海地として指定されました。

1871年廃藩置県弘前藩弘前県となり、陸奥国のほぼ全域を所管しましたが、陸運・海運の至便さが評価されて青森へ県庁が移転し、青森県が成立します。

 

1873年から開拓使青森函館間に定期航路を開設し、青森はますます北海道への玄関口としての性格を強め、1891年に日本鉄道(現・東北本線)が青森延伸を果たした際も、青森港に隣接するように駅が開設されました。

 

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青森港に接続する青森駅。今昔マップより。

 

2. サンロード青森

戦後の地方都市の伸長は著しいものがありました。

 

戦後急増する青森県の人口。

 

この人口伸長は青森市にも認められ、1958年 以降は年間5000人のペースで人口が増加し、2000年には人口30万人に到達しました。

この人口急増を受けて、1960年代に郊外畑地の工業化と工業化が進展し、1970年代のモータリゼーションを招きました。

青森市でも1972年に青森西バイパスが、1978年に青森東バイパスが全線開通し、自動車交通への変遷が進んでいました。

 

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戦後急拡大した青森市。今昔マップより。

 

その中で、郊外型ショッピングセンターが青森市にも触手を伸ばしていました。

チェーン店の青森進出に対抗するため、青森資本のショッピングセンター開業が企図され、日本初の地元主導型ショッピングセンターであるサンロード青森が1977年に開業しました。

サンロード青森は、青森主導であったため、キーテナントであるジャスコ(現・イオン青森店)よりも地元テナントの店舗面積が広いことにあります。

開業後は他地域のショッピングセンターよろしく大変な活況で、駐車場は連日満車だったそうです。

 

3. テクノポリス

1983年に高度技術工業集積地域開発促進法が施行され、全国26のテクノポリスが指定されました。

【全国26のテクノポリス

道央、函館、青森北上川流域、秋田、仙台北部、山形、郡山、宇都宮、信濃川、富山、甲府、浅間、浜松、西播磨吉備高原、広島中央、宇部、香川、愛媛、久留米・鳥栖、県北国東、環大村湾、熊本、宮崎、国分隼人

 

青森地域では1985年にテクノポリス開発計画が承認され、「北の技術定住都市の建設」をテーマに、弘前大学青森大学青森公立大学(1993年開学)の3大学を核にしたテクノポリスが建設され、産業技術開発センターの充実、テクノセンターの設立等が行われました。

そして、テクノポリスの利便性を高めるため、1985年に青森空港新滑走路が供用を開始して中型ジェットが就航し、1987年に青森空港有料道路が開業しました。また、1987年には東北自動車道が全通しました。

 

4. 青函トンネル

1988年に青函トンネルが開通して青函航路が廃止されました。

北海道への玄関口として成立した青森にとって、本州と北海道を直通する青函トンネルの開通は町の根幹を揺るがしかねません。

このため、青森市青森駅および青森港の再開発に踏み切り、1986年に青森県観光物産館アスパム青森駅ビル・ラビナを開業させました。

しかし、商業機能の中心市街地への揺り戻しはサンロード青森にとっては看過できません。このため、サンロード青森は1985年にリニューアル工事を行い、さらなる魅力の創出に努めました。

 

5. スプロール

サンロードの好況や1979年の青森インター開業を受けて、商業機能の郊外進出が進み、1990年にみなみ百貨店がジョイフルシティみなみとして移転開業しました。

 

【商業施設と青森ねぶた

当時の郊外商業施設の勢いが盛んだった傍証として、青森ねぶたの運行団体を見てみましょう。

サンロード青森は、地元の人々に開店を知ってもらうために、1977年にねぶたの運行を開始し、現在まで運行を続けています。

また、 みなみ百貨店(現・ジョイフルシティみなみ)(1976〜1992)やダックシティー青森ビブレ(現:さくら野百貨店青森本店)(1993〜2001)も運行していました。

 

また、商業施設の郊外移転に呼応して公共施設の郊外移転も進み、1970年に安方魚市場が閉鎖して卸売市場が郊外に移転したほか、青森県立中央病院(1981年)、青森県立図書館(1993年)と続々と移転が進み、行政機能が空洞化しました。

 

さらには、2000年の大店法廃止にあわせてイトーヨーカドー西バイパスパワーセンターが開業するなど、青森市街のスプロール化は留まるところを知らなさそうです。

 

6. 空洞化

各種施設の郊外に呼応して、中心市街地の空洞化が進みました。さらに、バブルによる地価高騰を受けて中心市街地の土地が買い占められた挙句、バブルが崩壊して多くの土地が売れ残りました。

また、中心市街地でも青森駅前への商業集積が進みました。

このため、中心街に位置する松木屋は窮地に立たされ、2003年に閉店に追い込まれました。

 

7. コンパクトシティ

市街地の拡大に伴い、地価が低下するだけでなく、上下水道や除雪の対象となるエリアが拡大しました。

 

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青森市一般会計(1300億円)の1%以上に及ぶ除排雪経費。除雪はどんな仕事?/青森市平成31年度予算/青森市より。

 

止まらない都市拡大に対する解決策として青森市が打ち出した方策がコンパクトシティでした。

青森市は1999年にコンパクトシティ構想を盛り込んだ都市計画マスタープランを日本で初めて策定し、郊外の開発規制ならびに市街地への開発誘導を展開しました。

コンパクトシティ建設の一環として青森駅前商店街を核とした中心市街地の再開発が進められ、2001年にAUGAが、2006年にミッドライフタワーが竣工しました。

 

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夜の青森駅前にそびえ立つAUGA。


これらの先進的な取り組みが評価され、青森市は2005年・2006年に政府都市再生本部の全国都市再生モデルの対象都市に選ばれました。

また、2007年には、富山県と共に中心市街地活性化基本計画が国に認められました。

 

8. AUGA

コンパクトシティの核である青森駅前に、虎の子として開業したFestival City AUGA | フェスティバル シティ アウガでしたが、決して平坦な道ではありませんでした。

計画当初はダックシティ(現・さくら野百貨店)をキーテナントに据える予定でしたが、バブル崩壊により親会社のマイカル(現・イオンリテール)は出店を断念しました。

次いで、松木屋に資本参加していた西武百貨店(現・そごう・西武)が老朽化の進む松木屋の移転改装も兼ねて開業する予定でしたが、こちらも出店を辞退するなど、テナント誘致は難航しました。

また、バブル崩壊の煽りを受けて資金調達も難航したため、青森市から資金を借り上げた第三セクターが運営することとなり、高層部には公共施設が配されました。

こうして2001年にやっとこさ開業に漕ぎつけたAUGAは年間600万人もの来館者を誘致しましたが、その経営状況は厳しいものでした。

青森市は、中心市街地の核施設を破綻させるわけにはいかないと、債権取得や利息低減などの支援を試みたが、批判も少なくありませんでした。

 

9. 東北新幹線

どのような批判を受けても青森市青森駅の開発に拘泥したのには、2010年の東北新幹線新青森延伸にありました。

 

1973年に整備新幹線の整備計画が決定され、北海道新幹線東北新幹線奥羽本線の結節点として新青森駅が整備されることとなりました。

この整備計画を受けて、1975年ごろから新青森駅周辺の区画整理が検討されましたが、オイルショック国鉄解体、さらには大宮以南の建設反対運動などを受けて、建設は大幅に遅延していました*1

いつまで経っても延伸しない東北新幹線に住民の不満も募るばかりでした。このため、国鉄(現・JR東日本)は1986年に奥羽本線部を先立って開業させましたが、新幹線の延伸計画はいまだ立っておらず、駅周辺の開発も手付かずのままでした。

 

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農地や林地が広がる新青森駅周辺。今昔マップより。

 

新青森駅周辺は2001年にやっと都市計画決定されましたが、これは1999年に青森市コンパクトシティ構想を打ち出した後でした。

このため、青森駅に並ぶ拠点とする当初の計画は見直され、青森駅と競合しないよう高さ制限や店舗面積などが制限されました。

しかしながら、2010年に東北新幹線新青森への延伸を果たしてもなお、新青森駅周辺の開発は進まず、更地が広がっていました。

このため青森市は、2011年に商業施設等の開設に対する補助金を、2012年には斡旋事業者に対する支援を設けましたが思うような成果は上がらず、2013年に青森市は高さ制限ならびに店舗面積を緩和しました。
しかしながら、新青森駅の北側を東西に貫通する国道7号沿いにはガーラタウンをはじめ20年以上かけてロードサイドショップ街が形成されたため、新青森駅への出店余地が乏しい状態となっています。

また、市民センター等の配置も一段落しているため、公共施設の立地も現実的でなく、手詰まりの様相を見せています。

 

さて、東北新幹線延伸に合わせて青森駅前の活性化も企図されました。

その核となる施設として、2010年JR東日本によりA-FACTORYが、2011年青森市によりねぶたの家ワ・ラッセが整備され、総合交通ターミナルや青森市観光交流情報センターも整備されました。
しかしながら、青森駅前の再開発に注力され、当初のコンパクトシティの理念と乖離する政策が展開されました。

 

10. AUGA再建

コンパクトシティを目指した青森市でしたが、時代の要請に応じた政策を展開しているうちに、商業機能が青森駅新青森駅・ロードサイドに分散してしまいました。
そして、2009年の市長選で新人の鹿内氏が現職の佐々木氏に打ち勝つと、コンパクトシティは12か所の市民センターを拠点とするものに拡大しました。

しかし、鹿内政権下でもAUGAの経営状況は依然として厳しく、青森市は2億円の融資や債権元金の繰延べ、さらなる支払利息の低減といった支援を施しましたが、2017年に青森駅前再開発ビル株式会社は24億円の債務超過を抱えて解散しました。

そして鹿内市長は、回収不可能となった融資金の責任を取って2016年に市長の座を辞しました。

 

そして、2017年には低層部の商業テナント36店舗が閉店し、テナント跡地には青森市役所駅前庁舎が入居しました。
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テナント閉店から青森市役所が入居するまでの間、低層部は営業終了扱いとなっていた。2017年8月撮影。

 

本州と北海道をつなぐ結節点として成立した青森の町は舟運、鉄道、高速道路、航空、新幹線と矢継ぎ早に挿入される交通体系に翻弄されながら、また新たな局面を迎えようとしています。

 

参考

*1:当初、東京盛岡間の完成目標は1977年でしたが、大宮盛岡間の開業は1982年に遅延し、東京盛岡間の全通は1991年までずれ込みました。