うみのおと

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盛岡

盛岡は岩手県の県庁所在地です。

 

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盛岡地方裁判所石割桜。国の天然記念物。

 

盛岡藩の城下町として岩手県の県庁所在地となった盛岡ですが、城下町ゆえに市街の枢要に城郭が鎮座しています。

近代に入り膨張を続ける都市は城郭とどう向き合ったのでしょうか。

 

 

1. 盛岡城

盛岡の誕生は1591年、豊臣秀吉重臣浅野長政が、奥州9か郡を領する南部氏にとって三戸城は北すぎると当地への移城を助言したことに遡ります。

助言を受けた南部氏は盛岡への移城を決定し、1597年から築城工事に着手しました。

当地が選ばれた理由として、雫石川北上川中津川の3川合流点に突き出す残丘が要害に相応しいと考えられたからです。

 

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東から流れる中津川、北から流れる北上川、西から流れる雫石川の合流点に花崗閃緑岩質の残丘が突き出ている。なお、かつての北上川は大きく蛇行していた。地理院地図、スーパー地形、治水地形分類図、シームレス地質図より。

 

そして、当城の縄張りとして、起伏を均して内曲輪を堀で囲み、南部氏一族や藩の重臣の屋敷を配置して外曲輪としました。そして、外曲輪の北側と東側の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪を配置しました。

さらに中津川以北の湿地帯を市街地とし、1609年から1612年にかけて中津川に上の橋・中の橋・下の橋の盛岡三橋を架橋しました。

 

盛岡城下。盛岡市HPより。

 

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中の橋に所在する旧盛岡銀行本店。


以来盛岡は、盛岡藩10万石の中枢として栄えました。

 

2. 岩手公園

盛岡をはじめとする城下町に変革をもたらしたのは廃藩置県でした。

1870年に発足した盛岡県は盛岡城跡に県庁を置きましたが、翌1871年に現在地に県庁を移転し、城跡は陸軍省の所管となりました。

しかしながら、陸軍者は盛岡城跡を使用することがなかったため城内は荒廃し、1874年に民間に払い下げられるの、建物や樹木の大半が撤去されました。

この盛岡城の荒廃を憂いた南部家は、1890年に盛岡城跡を買い戻し、1899年には堀の浚渫や桜山神社の建立を行うなど風致の向上に努めましたが、それでも城跡の多くは荒廃したままでした。

 

そこで1903年岩手県盛岡城跡を借用して公園を整備する案を決議し早速整備に着手しますが、翌1904年に日露戦争が勃発し、整備中断を余儀なくされます。

翌1905年に勝利しましたが、東北地方は三大冷害に見舞われます。

 

1905年、東北地方を冷害が襲った。仙台管区気象台HPより。

 

このため岩手県は、窮民救済事業として城跡公園の整備を進め、1906年に岩手公園が開園しました。

 

3. 大通

盛岡に鉄道が開通したのは1890年のことでした。

しかしながら、盛岡城下が中津川・北上川雫石川が合流する要害に所在しています。

このため、東京と青森、ひいては北海道を結ぶために設立された日本鉄道(現・東北本線)は盛岡城下へ接近できず、盛岡城下西郊に盛岡駅を開業させます。

 

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鉄道は要害を避けた。地理院地図とスーパー地形より。

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雫石川北上川に挟まれた盛岡駅

 

盛岡駅盛岡城の間には南部家所有の農地が広がるばかりでしたが、この畑地に目をつけた盛岡財界は、1927年に南部家から土地を払い下げを受けると、盛岡駅から盛岡城へ伸びる大通を敷設し、商店街と宅地を開発しました。

さらに、1931年には岩手県立農学校跡地が払い下げられ、こちらも宅地として開発されました。

すると、盛岡市街には盛岡駅盛岡城下という2つの核が生まれ、これが盛岡城によって分断された格好になったのです。

この分断はいちはやく解消すべきテーマでした。

 

4. 盛岡更生市場

1930年、当主が逝去し、相続税の支出に困った南部家は盛岡城跡の処分を検討し、1934年に岩手公園が盛岡市の所有となりました。
すると盛岡市は、岩手公園内に東大通りを敷設し、大通と盛岡城下を直結する計画を企てました。しかしながら、この計画は戦況の進展に伴い頓挫します。

 

戦後、盛岡市が東大通り敷設を企図していた櫻山神社境内地に、海外からの引揚者がバラック店舗を構えました。

1946年にはこれらの店舗により盛岡更生市場が組織され、櫻山神社境内地を借地して仮設店舗が設けられました。

 

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じゃじゃ麺満州からの引揚者がバラック満州料理・炸醤麺をふるまったものが由来。

 

しかし、境内地所有者市有地居住者の利害が対立し、1949年に境内地の盛岡更正市場協同組合と市有地の亀ヶ池通商業協同組合に分裂します。さらには、1948年以降に南部家が売却した民有地を購入した地権者により第二組合が組織されるなど、事態は混迷を極めました。

 

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所有者が入り組む岩手公園。盛岡市HPより。

 

こうした中で盛岡市は1950年から亀ヶ池の埋め立てを始め、1954年には東大通り予定地に位置する店舗を移転させました。
この東大通り開通の一環として、東大通商店街の一部に県有地と市有地に店舗兼住宅が建設され、盛岡市の管理のもと契約が締結されました。

 

しかしながら、盛岡市はかねてより桜山神社周辺の公園化を企図しており、1956年に都市公園計画を決定しました。

1959年、盛岡市はこの都市計画決定を確かなものにするため、公園整備事業実施時には協力するという条件のもとで商店街の区画整理ならびに店舗建築を行いました。

 

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桜山神社参道。多くの店舗は1959年に建築されたもので建替は厳しく制限されている。

 

盛岡市の不断の努力は続き、1970年に桜山神社岩手県産業会館間の桟橋店舗を撤去し
、2002年には桟橋から東大通りを挟んだ県有地を払い下げて、再開発ビル・East21を建設しました。

 

盛岡藩の枢要として盛岡を支えてきた盛岡城は盛岡都市計画の枢要として今も生き続けているのです。

 

参考

はたはた

魚へんに雷と書いてハタハタと読みます。

今回は冬の日本海がもたらす恵みの小話です。

 

 

1. ハタハタ

ハタハタスズキ目の深海魚で、鳥取県では山陰沖を回遊しているハタハタを底引き網で漁獲しており、9月から5月が漁期となっています。

しかし秋田県では、11月から1か月ほどハタハタが浅瀬の藻場に移動して産卵するのを狙って、定置網や刺し網で漁獲します。

この漁法ではごく短い期間で大量のハタハタが漁れたため、一度に多くのハタハタを食べられる料理法が生み出されました。ハタハタを魚醤にしたしょっつるハタハタを炊いたしょっつる鍋もその一つです。

さらに、大量のハタハタを食べるため、ハタハタと米を発酵させたハタハタ飯寿司をはじめ、干物や漬け物など様々な保存食が生み出されました。

 

このように、正月前に大量にもたらされるハタハタは、神様の恵みだと考えられました。このため、魚へんに神と書いたハタハタと読みます。

秋田県の習俗に根付いたハタハタは、県民アンケートによって2002年に県の魚に選ばれました。

 

2. はたはた

さてはたはたとは、断続的に起きる音を表す擬音語として平安時代に誕生し、蜻蛉日記上巻の用例が誕生当時の息遣いを残しています。

 

つごもりの日になりてなまといふ物心みるをまだひるよりごほごほはたはたとするぞひとりゑみせられてあるほどにあけぬればひるつかたまらうどの御かた男なんどたちまじらねばのどけし。

 

平安時代以降も断続音としての用法が継続し、義経記などの作品にも用例が見出されます。

 

吹きもて来て、帆にひしひしと当つるかとすれば、風につきてざざめかし走りけるが、何処とは知らず、二所に物のはたはたとなきければ、船の中に同音にわつとぞ喚きける。

 

ですが、この断続音の意味が次第に狭められて、近代には布や翼が風を受けて立てる音や様子のみを指す現代と同様の用法が確立したようです。

 

番町の旦那といふは口数少なき人と見えて、時たま思ひ出したやうにはたはたと団扇うちはづかひするか、巻煙草まきたばこの灰を払つては又火をつけて手に持もつてゐる位なもの、絶えず尻目しりめに雪子の方かたを眺めて困つたものですなと言ふばかり、

樋口一葉,『うつせみ』

 

どうして、断続音を表す擬音語が魚の名前になったのでしょうか。

答えはハタハタが大挙する冬の日本海にありました。

 

〜〜〜〜〜

 

シベリア高気圧から吹き出した風が日本海を渡ると、温暖な対馬海流から寒冷な季節風へ強い上昇気流が発生し、積乱雲が成長します。
この積乱雲が日本海に冬季雷を落とし、冬の到来を続けざまにはたはたと告げるのです*1

 

日本海の雷日数が多い。気象庁HPより。

 


順位 雷日数 観測地点
1位 42.4日 金沢市
2位 35.0日 福井市
3位 34.8日 新潟市
4位 32.2日 富山市
5位 31.4日 秋田市
6位 26.6日 熊本市
7位 26.4日 鳥取市
8位 25.4日 松江市
9位 25.1日 鹿児島市
10位 24.8日 宇都宮市

年間雷日数トップ10。本州日本海側の県庁所在地が全てランクインしている。


この雷雲は雪やあられを伴うことが多いため、日本海では雪起こしや雪雷などの愛称で呼ばれることが多く、富山県ではブリの豊漁期に訪れるためブリおこしとも呼ばれます。
秋田県では、冬季雷の時季に豊漁期を迎える魚を雷の擬音語にちなんでハタハタと呼び、あるいは波多波多の字を当てました。

こうして、はたはたが冬季雷の擬音語として用いられ、冬季雷の轟く時季に豊漁期を迎える魚の名がハタハタとなったのです。

 

参考

*1:冬季雷は世界的に珍しい気象現象で、日本海のほかは、ノルウェー西海岸と五大湖東岸でしか発生しません。

内灘

金沢北郊の内灘砂丘は、手取川から運ばれた土砂が日本海の海流によって堆積してつくられ、国内で3番目に大きい砂丘です。

 

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10kmにわたってつづく内灘砂丘シームレス地質図および地理院地図より。

 

砂丘は、季節風による飛砂や夏の高地温といった環境の悪さから、浜岡砂丘や北条砂丘のように開発されないケースが多く、開発されたとしても新潟や鳥取といった大都市の一部に組み込まれて発展するケースが多数です。その中で、この内灘砂丘は郊外としての道を歩みました。

今回は砂丘に築かれた郊外のお話です。

 

 

1. 郊外電車 〜レジャー地の成立〜

1898年、日清戦争をうけて軍備増強をすすめる陸軍は、金沢城に北陸3県(富山・石川・福井)からなる第9師団を編成しました。また同1898年には鉄道(現・北陸本線)が金沢まで開通し、かつては三都(江戸・大坂・京)に次ぐ大都市であった金沢にようやく近代化が訪れます。

金沢にとって大きな転機となった1898年、外港である金石への鉄道(後・北陸鉄道金石線)が、1913年には宿場町である野々市への鉄道(現・北陸鉄道石川線)がそれぞれ開通し、金沢は都市圏を形成しようとしていました。

 

1880年代から遠洋漁業で著しい発展を遂げた内灘にも金沢都市圏の手が伸び、1924年浅野川電気鉄道(現・北陸鉄道浅野川線)が開通しました。

しかし、郊外電車は郊外から都市へ向かう定期需要ばかりに偏重してしまい、都市から郊外へ向かう非定期需要は薄弱になりがちです。
そこで浅野川電気鉄道は、大阪から宝塚へ向かう郊外電車からスタートした阪急電鉄を手本にとって、沿線開発を進めました。

一連の開発の目玉が1925年に宝塚をモデルに開園させた粟崎遊園です。
粟崎遊園は海水浴場、スキー場、温泉、劇場、動物園、遊具施設、野球場を擁する一大レジャー施設で、1928年には宝塚歌劇団を手本にとった少女歌劇団が編成されます。

 

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北陸鉄道浅野川線の終着・内灘駅。1929年に粟ヶ崎遊園駅として開業。

 

金石へ伸びる金石電気鉄道も負けじと対抗し、涛々園を開園しました。こちらも温泉、旅館、動物園、劇場、写真館を擁する一大レジャー施設で、両園は来園客の誘致にしのぎを削りました。

 

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金沢から郊外へ伸びる3本の鉄路。今昔マップより。

 

しかし、1941年に太平洋戦争が開戦すると、粟崎遊園と涛々園はともども休園に追い込まれました。
栗崎遊園は第9師団に接収され、仮兵舎や日本タイプライターの軍需工場として転用されました。

 

2. 内灘闘争 〜農業への転換〜

第二次世界大戦に敗れ荒廃しきった日本でしたが、1950年に朝鮮戦争が開戦すると米軍の兵器需要が増加し、特需景気とよばれる好景気を迎えます。

この特需で砲弾需要も増加し、米軍は日本メーカーが納入する砲弾の性能を検査する試射場が必要となりました。

この試射場には長い海岸線をもつ砂丘が適したため、浜岡砂丘内灘砂丘が候補に挙げられ、政府は内灘砂丘への試射場設置を内灘に通告しました。

しかしこの試射場設置に対し、内灘内灘闘争と呼ばれる多角的な反対運動を展開しました。

内灘は試射場設置への反対を決議し、北陸鉄道浅野川線での資材搬入に対してストライキを決行しました。

さらに1953年の衆参両院選*1では、接収を担当した林屋亀次郎国務相が、接収反対を掲げた井村徳二氏に敗れました。

 

しかしながら、熾烈な反対運動もむなしく、試射場の使用が許可されました。このため、砂丘を拠点としていた沿岸漁業が操業できなくなりました。また、時を同じくして、内灘漁団は北海道や青森の漁場から締め出され、内灘は主産業である漁業を失います。

 

窮地に追い込まれた内灘が見出した活路は農業でした。

試射場の補償として1953年からはじまった内灘地区代行開墾事業では、砂丘の開墾や防風林・灌漑施設の設置といった農業基盤の整備が行われました。

さらに米軍が1957年に撤退すると、追加補償として河北潟干拓され、大規模稲作による食糧基地が目指されました。

 

しかし1970年に減反政策が始まり、1985年に干拓が完了しても干拓地での稲作が禁止されました。このため、干拓地では畑作あるいは酪農が営まれました。

ですが、そもそも畑作に慣れていないうえ、干拓地ゆえに野菜が冠水することもしばしばでした。これらの困難に直面して畑地を手放す農家が相次ぎ、この耕作放棄地には工場や宅地が進出することとなります。

 

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内灘砂丘から河北潟と白山連峰を望む。

 

意図しない外圧により、漁業から農業へと産業構造を転換させられた挙句、内灘は主産業を失ってしまいました。一体どこに活路を見出せばよいのでしょうか。

 

3. 宅地開発 〜砂上の郊外〜

内灘に、金沢の手が伸びてきたのは高度経済成長期のことでした。

高度経済成長を迎えて膨張する金沢市は、1954年の安原村、額村、内川村、犀川村、湯涌谷村、1956年の押野村、1957年の浅川村、1962年の森本村と4次にわたって8村を編入しました。

それでも膨張の止まらない金沢の受け皿として、石川県は内灘にフィーチャーし、1960年に内灘村を金沢都市計画区域に指定しました。

そして、都市計画の叩き台として、1960年に石川県住宅公社は内灘砂丘上にアカシア団地を造成しました。

当初は「砂上の楼閣」などと揶揄されたアカシア団地でしたが、芝生や植樹を徹底して飛砂を防ぎ、全ての住宅を平屋建として安全性にも配慮したため、ほどなく成功を収め、転入者が急増した内灘は1962年に町制を施行して内灘町となります。

 

この成功を受けて石川県住宅公社は、1967年の鶴ヶ丘、1969年の鶴ヶ丘4丁目、1970年の鶴ヶ丘5丁目と、内灘町への住宅団地の造成を進め、民間による宅地開発も進みました。

加速する宅地化と地価高騰を目の当たりにした土地所有者は、民間や石川県に土地を売るのではなく土地区画整理組合を組織しはじめ、1967年の大根布第1・ニューアカシア、1968年の鶴ヶ丘、1969年の向粟崎、1971年の向粟崎第2、1972年の向粟崎第3、1973年の向粟崎第1、1974年の大根布第3・向粟崎第5、1975年の大根布第2などの土地区画整理事業が展開されました。

 

4. 文教都市ベッドタウンからの脱皮〜

郊外都市に活路を見出した内灘町でしたが、内灘闘争のような産業構造の転換がいつ訪れるかわかりません。このため、内灘町は新産業の開拓に取り組みます。

そして、新産業として脚光を浴びたのが北陸電力金沢火力発電所の建設計画でした。内灘町は重工業への転換を目論んだのです。

ですが、内灘闘争での経験から、計画を小出しに公表すると、町民の反対に遭って計画が難航することは必至でした。

このため、内灘町はできる限り計画の公表を遅らせ、1970年に北陸電力と用地買収の仮契約を済ませてから公表に踏み切りました。
しかし、内灘町は既に郊外としての道を歩みはじめていました。住環境が脅かされた県営住宅の住民を中心に反対運動が展開され、北陸電力は1973年に火力発電所の建設地を七尾市に変更します。

 

こうして内灘町は重工業への道さえも絶たれてしまいました。そんな中頼みの糸となったのが大学誘致でした。

この大学誘致は晴れて実現します。1972年に金沢医科大学が開学し、1974年に金沢医科大学病院が開院しました。

さらに、1985年には若年人口の増加をうけて内灘高校が開校し、内灘町文教都市としての道を歩んだのです。

 

5. 新産業 〜郊外の新たな一手

さて、内灘季節風による飛砂がつくった町でした。

この季節風を有効活用するべく、内灘町は2004年に内灘風力発電所を建設しました。

 

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右手に内灘風力発電所をのぞむ。冬季雷を防ぐため避雷塔が併設されている。

 

さらなる風力資源活用をねらって2007年に32基の風力発電所計画が立ち上がりましたが、このオーバースケール発電所建設計画に対し、地元住民は景観が損なわれるとして反対し、建設計画は中止されました。

 

今となっては何の変哲もない郊外に見える内灘町ですが、幾度もの産業転換を迫られながらも砂丘に花開いた文教都市だったのです。

 

参考

*1:いわゆるバカヤロー解散。