うみのおと

まちのこと ひとのこと うみのこと

伏見

京都市の南部に伏見というまちがあります。寺田屋月桂冠大倉記念館などの観光施設があり、龍馬ゆかりの地あるいは酒どころとして、今日も多くの観光客が訪れます。

 

f:id:CebunseaS:20180703183147j:image

月桂冠大倉記念館

 

京都市:平成28年 京都観光総合調査についてによれば、2016年に京都市を訪れた日本人観光客5204万人のうち15.3%が伏見周辺を訪問しているので、年間800万人近くの日本人が訪れる、国内有数の観光地なのです。

伏見の歴史については、うしさんの伏見と印刷と音楽を!によくまとめられていますが、今回は水利の視点からこのまちを紐解いてみたいと思います。

 

 

話は戦国時代まで遡ります。

豊臣秀吉が指月山に伏見城を築いたのが、伏見のあけぼのでした。築城に合わせて、秀吉は伏見城下が交通の要衝となるように、交通路を再編しました。

陸上交通では、 巨椋池に小倉堤と豊後橋(現・観月橋)を築き、宇治を経由していた京奈間陸運を短絡しました。また、淀川左岸に文禄堤を築き、淀川を渡河しなければならなかった京坂間陸運を短絡しました。そして、いずれの短絡路も伏見を経由させました。

水上交通では、槇島堤を築いて巨椋池宇治川を分離させたうえ、淀堤を築いて宇治川と淀川を直結させました。この築造により、京坂間水運は巨椋池に進入せずにすみました。また、周辺の港を廃止して河港機能を集約させることで、伏見港は京への荷揚げ港として栄えました。宇治川巨椋池を貫通せず、北に迂回しているのは、秀吉のたくらみを受けてのものなのです。

 

f:id:CebunseaS:20180703183409j:image

伏見みなと公園の淀川水運にちなんだモニュメント。

 

江戸時代に入ると、角倉了以が京から伏見に至る高瀬川を開削しました。すると、京坂間が一筋の水路で結ばれ、伏見港は京坂間の中継港として江戸・京・大坂の三都に次ぐ賑わいを見せました。

 

f:id:CebunseaS:20180703185205j:image

高瀬川の終点に立つ記念碑。

 

明治時代に入ると、東京奠都により京都は人口減少と産業衰退の憂き目に遭いました。この退潮を好転させようと企てられたのが琵琶湖疏水です。さらに、琵琶湖疏水と濠川を結ぶ鴨川運河が開通し、京伏間水運が複線化されました。

鴨川運河の開通で、河床の浅い高瀬川水運は存続が危ぶまれます。高瀬川水運は、輸送物資を分担することで共存の道を模索しましたが、鉄道や道路など陸上交通への転換が進んだため、両水運の輸送量は激減し、高瀬川水運は廃止されてしまいます。

 

1885年、発達した低気圧が相次いで大阪を襲い、淀川の堤防が各所で決壊しました。この洪水で大阪府内では70000戸が浸水し、30万人もの人が被災しました。

この洪水を受けて、大阪府などの自治体が国に働きかけたため、1896年に河川法が制定されました。そして、河川法により新淀川の開削や宇治川の付替と巨椋池との完全分離などからなる淀川改良工事が行われ、大阪市街は水害の恐怖から解放されました。

この淀川改良工事は、河川史の転換点でした。近世までの河川工事はもっぱら利水機能の向上を目的としたものでした。確かに、豊臣秀吉の水系改造も角倉了以高瀬川開削も京都市琵琶湖疏水建造も、いずれも水利に主眼が置いています。淀川改修工事は利水機能よりも治水機能の向上を目指した、日本初の工事だったのです。

 

しかし、1917年の豪雨で木津川の流量が増加し、淀川の堤防が再び決壊します。さらに、木津川の出水が宇治川に及び、伏見でも三栖の堤防が決壊、伏見町内3500戸が浸水しました。伏見は高瀬川や濠川が宇治川派流に合流してから宇治川に流れ込み、河口に伏見港が存在する複雑な水理のため、単に堤防を修築すればいいというわけではありません。伏見は先の洪水の決壊箇所より上流に位置したため、淀川改良工事では改修の手が及んでいませんでした。今回の豪雨はそこを突いたのです。

この洪水を受けて、1918年から淀川改修増補工事が行われました。淀川では堤防の拡築が行われ、三川合流地点では背割堤を築造して三川いずれかの流量が増加しても他の川に影響が及ばないようにされました。

伏見でも治水事業が講じられます。伏見市街の浸水を防ぐため、観月橋三栖間の宇治川右岸に堤防が築かれました。この築堤により、宇治川派流の取水口として平戸樋門が設置されました。そして、新高瀬川と疏水放水路を開削し、出水時は平戸樋門を閉じて高瀬川と鴨川運河の流れを伏見西郊で放流させました。

 

f:id:CebunseaS:20180703184959j:image

平戸樋門。

 

晴れて伏見市街も水害から解放されました。しかし、宇治川への築堤で伏見港への通航ができなくなりました。水を引き入れることで栄えた伏見のまちから水が奪われたのです。このため、伏見港を再興する動きが起こりました。さらに、日中関係が不安定になると、深草村の陸軍第16師団への輸送が拡大しました。その時勢下で伏見港を廃港するわけにもいかず、堤防の内側に伏見港を設ける計画が立てられます。

 

しかし、水位差が立ちはだかります。

 

堤防を新築して流路が直流化された宇治川は、河床が浸食されて水位が下がりました。すると、伏見市街が宇治川から隔絶されている間に4.5 mもの水位差が生じ、宇治川本流から伏見市街へ進入することができなくなっていたのです。

 

f:id:CebunseaS:20180703190618j:image

宇治川から取水していたはずの平戸樋門だが、現在では宇治川へ放流している。

 

このような水位の異なる2つの水域を結ぶために設けられるのが閘門です。1929年に三栖閘門が竣工すると、伏見港は再興を遂げ、1934年には港湾法による地方港湾に指定されました。

 

f:id:CebunseaS:20180703184424j:image

三栖閘門。

 

また、1935年の豪雨では鴨川が決壊し、京都市内50000戸が浸水しました(京都大水害)。しかし、伏見では宇治川への築堤で宇治川からの逆流が、新高瀬川の開削で高瀬川からの流入がそれぞれ防がれ、大事を免れたのです。

 

大正時代に入り、伏見の酒造業が大幅な成長を遂げて町の経済が拡大すると、伏見市昇格への要望が高まりました。そして、1929年に市制を施行し、伏見市が誕生しましたが、伏見市誕生には京都市への合併を認めるという条件がついていました。それでも、伏見市京都市との合併を少しでも有利に進めるため市制を選んだのです。しかし、京都府はさらにしたたかでした。

伏見市は、平戸樋門や三栖閘門の整備で宇治川派流の流量が安定したため、宅地造成をねらった宇治川派流の埋め立てに着手しました。伏見市は、埋立地中書島遊郭への売却益を工事費に当てがおうとしましたが、伏見市京都市編入をねらう京都府は、埋立地遊郭地指定を認可しませんでした。折しも昭和恐慌と重なり、埋立地の売却益は工事費を大きく下回り、伏見市は歳入欠陥に見舞われます。そして1931年、伏見市はわずか700日で京都市編入されることとなるのです。これは、戦前唯一の市市合併で、伏見市は史上最短命の市となりました。

 

f:id:CebunseaS:20180703190444j:image

伏見市の命運を左右した宇治川派流。

 

淀川水運は、大戦末期には輸送力を失った鉄道に代わる交通手段として水運が注目され、1947年には伏見に船溜が設けられています。

 

しかし、水位差が再び立ちはだかります。


1953年に襲来した台風13号は、淀川水系に過去最大の出水をもたらしました。淀川三川が同時に氾濫したため、淀川改修増補工事も歯が立たず、淀川本川も氾濫してしまいます。ですが、河口から中流部までの治水事業は、これまでの改良工事で飽和しており、新たに堤防を築造するにも用地取得が困難です。そこで、上流にダムを設けて流量を調整する淀川水系改修基本計画が講じられました。こうして、高山ダム(木津川上流)、日吉ダム桂川上流)、天ヶ瀬ダム宇治川上流)が建設されました。さらに、伏見では宇治橋観月橋間で河床の浚渫や築堤が行われました。

すると、宇治川の水位はさらに低下し、宇治川の水位が伏見市街の水位を数mも下回ってしまいました。この水位差は閘門でも対応しきれず、天ヶ瀬ダムが完成した1964年、三栖閘門はわずか35年でその役目を終えました。

 

f:id:CebunseaS:20180703184502j:image

三栖閘門に宇治川の流れが導かれることはない。対岸に目を移すと、河床低下の痕跡がうかがえる。


三栖閘門も地元の保存運動を受け、1998年に閘室に再び水が引き込まれ十石船の発着場として用いられています。さらに、2003年には操作室棟が三栖閘門資料館として整備され、伏見と水利の歴史を偲ぶことができます。

f:id:CebunseaS:20180703184734j:image

エンジンを積み、生まれ変わった現代の十石船。


参考