うみのおと

まちのこと ひとのこと うみのこと

日比谷

日比谷は東京都千代田区のローカルな地名です。しかしながら、日比谷公園や日比谷通り、東京メトロ日比谷線や2018年開業の東京ミッドタウン日比谷などで、東京に在住したことがなくてもこの地名を聞いたことがある人は少なくないのではないでしょうか。

ところで、日比谷とはどこでしょう。日比谷駅東京ミッドタウン日比谷千代田区有楽町一丁目に所在しますし、日比谷公園千代田区日比谷公園に所在して、実は千代田区日比谷という地名は存在しないのです。

 

f:id:CebunseaS:20181022080513p:image

日比谷。各省庁の名と日比谷公園の文字が目立つ。地理院地図より。

 

今回は日比谷と銘打ってみましたが、千代田区日比谷公園および霞ヶ関一丁目の正方形区画に限って話したいと思います。

現在は官庁街や日比谷公園が所在するこの区画。実は、外務省によってつくられたのです。

 

 

1. 本丸官庁集中計画

明治維新によって明治政府が誕生しました。新政府に設けられた各省庁は、政府に召し上がられた藩屋敷を転用して庁舎を設けたため、各地に点在していました。

1872年、政府は天皇親政のため皇城本丸に官庁を集中するよう命じましたが、結局着工されることはありませんでした。

1875年に皇城が焼失すると、再び本丸への官庁集中を計画しましたが、皇城の地盤が軟弱であることが判明します。

官庁集中計画では堅牢な官庁が密集するため、頑丈な地盤が不可欠です。どうやら、皇城への官庁集中計画は諦めないといけないようです。

 

2. 日比谷官庁集中計画

さて、明治政府にとって、治外法権を撤廃し、対等な国交を樹立するための条約改正は、国家の命運を左右する一大プロジェクトでした。

条約改正の全権を担った外務大臣井上馨は、1886年の条約改正会議に向けて、欧米諸国と対等に渡り合えるよう欧化政策をとります。

そして、欧化政策の舞台として仕立て上げられたのが、1871年に外務省庁舎が移転してきた日比谷でした。

 

まずは、1880年に内幸町の薩摩藩屋敷跡に外国人接待所を建設し、1883年に鹿鳴館を落成させました。

さらに、翌1884年には日比谷への官庁集中を建議し、1886年に官庁集中計画を所掌する臨時建築局を設置、井上馨が総裁となりました。

臨時建築局は、外務省庁舎と鹿鳴館の間に広がる陸軍日比谷練兵場への官庁集中を設計し、陸軍省に陸軍日比谷練兵場の移転を要請しました。

この要請を受けて、1888年に陸軍日比谷練兵場は青山に移転します。

 

f:id:CebunseaS:20181016191041p:image

陸軍日比谷練兵場が外務省庁舎と鹿鳴館の間に広がる。外務省庁舎の北には教導団の兵営があった。東京測量図原図より。

 

こうして、外務省は日比谷に広大なキャンバスを手に入れました。

この陸軍日比谷練兵場跡地には、ロの字に庁舎を配置し、中心に庭園を開ける配置が計画されました。

海軍省 司法省 農商務省・文部省
裁判所             特許局・東京府
大蔵省 警視庁 内務省

 

これから、欧化政策の夢が描かれるはずだったのです。

 

しかし、井上馨不平等条約の改正に失敗します。1887年、この責任を取って井上馨外務大臣ならびに臨時建築局総裁から退きました。

そして、トップを失った日比谷への官庁集中計画は、内務省に移管されました。

 

3. 日比谷官庁集中計画(内務省

官庁集中計画は内務省に引き継がれ、1888年司法省庁舎が起工しますが、またしても問題が現れます。

 

陸軍日比谷練兵場跡地の海手は、江戸初期に神田川の河口を埋め立てた土地で、頑丈な砂礫層の上には軟弱関東ローム層がぶ厚く堆積していました。このような土地に堅牢な官庁舎を建設するには、砂礫層に到達する長い杭を打つか、関東ローム層に多くの摩擦杭を打つ必要があり、いずれにせよ費用がかさみます。

 

f:id:CebunseaS:20181016191545p:image

陸軍用地の山手は黄色で示される砂礫層海手半分は黄緑色で示される関東ローム層だった。また、永田町は茶色で示される麹町台地に位置する。治水地形分類図より。

 

このため内務省は、海手の軟弱地は公園地とし、司法省・大審院海軍省山手の頑丈地に、残りの官庁はより山手の麹町台地へ建設する計画に変更しました。

そして、1894年に海軍省庁舎が、1895年に司法省庁舎が、1896年に大審院庁舎が山手に完成し、日比谷への官庁集中計画は外務省の予想だにしない形で終わったのです。

 

司法省 (司法省) 都立
大審院               日比谷
海軍省               公園

 

4. 日比谷公園

東京市海手の軟弱地日比谷公園を造成するため、陸軍日比谷練兵場跡地を取得したのは1893年のことでした。
しかし、翌1894年に日清戦争が勃発すると、公園事業は凍結され、公園地は陸軍省に貸し出されてしまいます。
1898年に陸軍省から公園地が返還され、東京市はようやく日比谷公園の造成に着手しました。

日比谷公園東京市ではじめての欧風公園であったため、いくつもの設計案が棄却され、着工に4年、建設に2年を要しましたが、1903年になんとか開園することができました。

噴水広場から日比谷公会堂にかけて広大な運動場を描いた日比谷公園には、開園直後、多くの見物客が訪れたそうです。

 

f:id:CebunseaS:20181016191301p:image

山手の司法省・大審院海軍省海手日比谷公園。外務省の計画は思わぬ形で決着を見た。今昔マップより。

 

5. 中央合同庁舎

1945年に第二次世界大戦終戦し、日比谷の一角にあった海軍省が廃止されました。この海軍省本館の跡地に、1954年、戦後初の本格的官庁建築である中央合同庁舎第1号館が完成し、農林水産省林野庁水産庁が入居しました。

 

海軍省の他の建物は厚生省に利用されていましたが、やがて庁舎が手狭になったため、1973年に中央合同庁舎第5号館が計画されました。しかし、オイルショックに伴う建築費高騰のために建設が中断し、1983年に建てられました。

中央合同庁舎第5号館本館には、厚生省のほか、大手町の労働省と麻布台の国土庁、暫定的に中央合同庁舎第4号館に仮入居していた環境庁が入居し、中央官庁を霞ヶ関に集中するという中央官衙の目的は概ね達成されました。

第5号館は官庁営繕部初の超高層庁舎であるだけでなく、厚生省が入居することから身体障害者対策モデル庁舎として、国土庁が入居することから耐震庁舎として、環境庁が入居することから省エネルギー対策モデル庁舎として設計されました。

また、中央合同庁舎第5号館別館は、東京家庭裁判所庁舎として1966年に完成し、現在は人事院が使用しています。

 

1948年に司法省から成立した法務省が位置する司法ブロックでは、ブロック内の老朽・狭隘や分散などにより整備が必要でした。庁舎を整理・集約するため、1984年に東京高等・地方・簡易裁判所合同庁舎、1990年に中央合同庁舎第6号館A棟、1994年には中央合同庁舎第6号館B・C棟が竣工しました。

 

法務省             都立
厚労省             日比谷
農水省             公園

 

こうして、日比谷は現在の姿に至ったわけです。官庁街と大公園、一見関連のないように思える2つの都市施設は、外務省によって企てられ、地盤によって打ち砕かれた夢の跡だったのです。

 

参考