うみのおと

まちのこと ひとのこと うみのこと

上敷免

埼玉県深谷市上敷免。何の変哲も無い田園地帯に見えるこの景観は、一筋縄に形成されたものではありませんでした。

今回は、中央政府の思惑に振り回された農村のお話です。

 

 

1. 日比谷と煉瓦

明治政府にとって不平等条約の改正は喫緊の課題で、条約改正を控えた明治政府は、権威づけのため日比谷に煉瓦造庁舎を集中させる官庁集中計画を計画しました。

この計画には膨大な量の煉瓦が必要でした。しかし、当時は煉瓦が手作りで製造されたため、一つ一つの大きさがまちまちで、品質の面でもとうてい高層建築に使用できる代物ではありませんでした。ですので、煉瓦製造の機械化が望まれましたが、官営工場を設立する余裕など政府にはありません。
このため、政府は製品は「7%の利益を加えて臨時建築局が買い上げること」、「外国人技師を政府が派遣すること」を条件に煉瓦製造業者を呼びかけました。


この呼びかけに応じたのが、千葉財界の有力者であった池田英亮と隈山尚徳でした。彼らは煉瓦製造経験を糧に、千葉県下での煉瓦製造を企図しました。

さらに明治政府は、渋沢栄一に機械式煉瓦工場の設立を要請しました。要請を受けた渋沢は、三井物産の益田孝とタッグを組み、故郷である埼玉県榛沢郡への工場設置を企図しました。
そして、池田・隈山氏の事業と渋沢・益田氏の事業を統合して日本煉瓦製造が設立され、工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(現・深谷市)に設置されることとなりました。

 

工場が位置する上敷免村は、小山川の氾濫原に位置し、小山川が氾濫するたびに粘土が堆積しました。上敷免では、この粘土を用いた瓦製造が盛んでしたが、土壌が粘土質なので水田を設けることはできず、畑地が広がっていました*1

 

f:id:CebunseaS:20180713082453p:image

関東迅速測図より。上敷免村周辺には未及畑が広がり、黄色で表される田があまり見られない。

 

このため日本煉瓦製造は、原料粘土を工場周辺の畑地から無償で採掘する代わりに、粘土を掘り尽くした土地は水田にして返却する約束を交わしました。

 

 

しかし、明治政府による不平等条約の改正は失敗に終わります。そして、日比谷への官庁集中計画は頓挫、日本煉瓦製造への発注も立ち消えになってしまいました。唐突にハシゴを外された日本煉瓦製造には、辺鄙な土地に設けられた工場だけが残され、先の経営が不透明となります。

さらに、工場の操業が開始した1899年に小山川が氾濫します。この氾濫で、氾濫原に設けられた工場は浸水、日本煉瓦製造は多難な船出を切ったのです。

 

2. 碓氷峠と煉瓦

設立当初から窮地に追い込まれた日本煉瓦製造でしたが、救いの手が差し伸べられます。

 

近代化を目指す明治政府にとって、鉄道網の敷設は急務でした。五港の一つである新潟へ鉄道を敷設するため、上野横川駅間ならびに軽井沢直江津駅間が開通しましたが、ここで大きな壁にぶつかります。

横川軽井沢駅間にそびえる碓氷峠は、直線距離10kmの間に552mもの標高差があります。単に峠があるだけならば、トンネルを掘るだけで済むのですが、碓氷峠は両者の標高が大きく異なる片峠で、どうしてもこの標高差を上りきる必要があるのです。

 

f:id:CebunseaS:20180717082653p:image

スーパー地形アプリより。横川軽井沢間の碓氷峠。峠の両側で標高の異なる片峠。

 

1890年に碓氷峠への鉄道敷設が決定されましたが、当時の機関車の能力では、この急勾配にはとうてい対処できません。このため、横川軽井沢駅間はラック式鉄道が採用されました。

通常の鉄道は滑らかな2本のレール上を滑らかな車輪が転がって進みます。ラック式鉄道は、2本のレールの間に歯型のレールを設け、車両に設けた歯車と嚙みあわせることで急勾配を登り降りする推進力を手に入れます。

このためラック式鉄道は、列車の推進力を受ける道床がじゅうぶん頑丈である必要があります。たとえば、鋼桁では強度が足りないので、丈夫なレンガ製アーチが必要だったのです。

このとき、煉瓦の供給元として選ばれたのが、碓氷峠にほど近い日本煉瓦製造で、1891年から翌年にかけて煉瓦を納入しました。

しかし、碓氷峠への煉瓦の納入を終えると、また新たな壁にぶつかります。

 

3. 上敷免と煉瓦

日本煉瓦製造で製造されたレンガは小舟に積み込んで小山川を下り、利根川で大舟に積み替えて東京へ輸送しました。

しかし、碓氷峠の鉄道工事を受注すると、東京への輸送が減少したため、舟夫が離職し、船舶が老朽化してしまいました。このため、いざ東京へレンガを輸送するとなると数十日も要してしまい、輸送が追いつきません。需要に供給が間に合わず、日本煉瓦製造は500万個を超える在庫を抱えて生産ラインの縮小に追い込まれます。

これでは、せっかくの機械による大量生産も台無しです。需要に応じた供給を実現するため、1895年に工場と深谷駅を結ぶ上敷免鉄道を敷設し、鉄道で煉瓦を輸送しました。

 

f:id:CebunseaS:20180713213429p:image

今昔マップより。日本煉瓦製造を支えた上敷免鉄道。

 

その後、1897年ごろに洋風建築ブームが訪れると経営も上向き、日本煉瓦製造で製造された煉瓦は東京駅*2日本銀行旧館、法務省旧本館、旧三菱丸の内煉瓦街、旧丸ビル、東京裁判所、慶應大学図書館旧館、横浜開港記念館など日本各地の煉瓦建築に用いられ、日本煉瓦製造は日本最大の煉瓦工場となりました。

 

東京駅。日本最大の煉瓦建築。

 

しかし、1923年に関東大震災が発生します。

官庁集中計画や碓氷峠の鉄道工事、欧風建築ブームなど、煉瓦は不燃性と堅牢さを売りに普及した新建材でした。しかし、その耐震性は低く、関東大震災では多くの煉瓦建築が倒壊してしまいます。

関東大震災を機に多くの建築が、鉄筋コンクリート造に移行し、煉瓦の需要が激減しました。日本煉瓦製造はこれまでにない苦境に立たされます。

 

日本煉瓦製造は、煉瓦需要の低迷が続く中でも、道路舗装や建物の外壁、ガーデニング用の煉瓦など、需要の掘り起こしに取り組んできました。それでも、煉瓦需要の減少に歯止めがかからず、1975年に上敷免鉄道が廃止されました。さらに、安価な外国産煉瓦に打ち勝てないため煉瓦の輸入販売に専念しましたが、2006年に廃業します。

事業清算時に、8000㎡の土地と建物が深谷市に寄贈されました。国指定重要文化財を3つも抱える土地は、現在も深谷市によって保存されています。


さて、現在の上敷免を見てみましょう。

当初の約束通り、粘土を採掘した畑地は水田に転換されました。こうして掘り下げられた水田は周囲よりも一段低くなっています。

 

f:id:CebunseaS:20180713082816p:image

植生図より。関東迅速測図と比べて緑色で表される水田が拡大していることがわかる。

 

上敷免に広がる水田は、一見すると何気ない田園風景です。しかし、この景観は日本の近代化がもたらしたものだったです。

 

参考

*1:深谷市はねぎの生産量が日本一ですが、この粘土質土壌がねぎの生育に適したのです。

*2:1996年、深谷駅が改築されたとき、東京駅が日本煉瓦製造の煉瓦を使用していることにあやかり、深谷駅は東京駅を模した駅舎に改築されました。