うみのおと

まちのこと ひとのこと うみのこと

香里

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地理院地図で見た香里。色別標高図には、竹村和広氏の千葉地形地図を使用。竹村和広氏のWebサイトはこちら

 

1.郡村

今回の舞台である香里は、枚方市寝屋川市にまたがる郊外住宅地です。多くの郊外住宅地がそうであったように、香里も近世までは宅地化しておらず、枚方丘陵の裾に郡村が所在するのみでした。

 

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スーパー地形アプリと今昔マップより。今昔マップは明治41(1908)測図の2万分の1地図。香里駅と郡集落が確認できる。

 

それでは、なぜ郡村に郊外住宅地が設けられることとなったのでしょう。京阪間交通から考えてみましょう。

 

近世まで、京と大坂を結ぶ京坂間交通は淀川左岸が主役でした。京街道は淀川左岸の淀・枚方・守口の各宿場を経由し、多くの舟が京街道の宿場に寄港しました。これは、最終目的地である大坂市街が淀川左岸に位置したからでした。ですので、淀川右岸は京坂交通の脇役に徹することとなります。

しかし、明治9(1876)年に開通した官設鉄道は淀川右岸を経由しました。これは、官設鉄道が神戸・大阪・京都を一筋の線路で結ぶことを考えており、淀川左岸の大阪市街に乗り入れると遠回りとなり淀川に架橋しなくてはなりません。ですので、官設鉄道は淀川右岸の梅田*1大阪駅を設けました。

鉄道が敷設された淀川右岸は次第に発展しました。これを受けて淀川左岸にも鉄道敷設計画が持ち上がります。明治36(1906)年に設立された京阪電気鉄道は大阪・守口・枚方・淀・伏見・京都の順に京街道の各宿場を結ぶように計画されましたが、守口枚方間は京街道から逸れて寝屋川を経由するように計画されました。これは、寝屋川水運の存在が大きかったからでしょう。京阪電気鉄道の他に寝屋川水運の代替を狙った鉄道としては浪速鉄道があり、後の片町線片町四条畷間を明治28(1895)年に開業させています。

そして、寝屋川を経由した京阪電気鉄道枚方丘陵に沿うように北上します。このとき、枚方丘陵の裾に所在する郡村に駅が設けられることとなりました。

電鉄の開通は沿線にとって大チャンスです。そこで、郡村では遊園地の設置が計画されました。

 

どうして、遊園地だったのでしょうか。

 

2.香里遊園地

当時の遊園地は現在のように遊具を楽しむだけではなく、眺望を楽しむ場でもありました。明治40(1907)年、兵庫県西宮市に開業した阪神電気鉄道香櫨園遊園地も片鉾池沿いの景勝地に設けられて賑わいました。

郡村はというと、枚方丘陵上の土地の多くが針葉樹林として手付かずでした。ですが、この未利用樹林は撓曲*2面上に位置するため、西に淀川を見下ろす眺望は素晴らしいものでした。郡村の遊園地計画は、未利用地の一大開発事業だったのです。


郡村では土地の買収を進めるかたわら、街道沿いや山手に桜を植樹して風致を整えました。このとき、園名は香櫨園遊園地にならって、郡(こおり)香里(こうり)の字を当てて、香里遊園地と命名されました。

準備が整うと、京阪電気鉄道に土地の購入を申し込み、桑原取締役の独断で無事に土地が購入されます。
つづいて京阪電気鉄道の番です。当社は、明治43(1910)年の電鉄開業に間に合わせるため、園地に桜や楓を植え、梅園・菖蒲園・小運動場などを造営しました。しかし、準備が間に合わないまま香里遊園地は開業してしまいます。

 

3.香里園

京阪電気鉄道開業の翌明治44(1911)年、田辺貞吉氏が京阪電気鉄道の取締役社長に就任しました。田辺氏は取締役社長に就任するやいなや、臨時株式総会を開いて香里遊園地の宅地開発を決定します。そして、翌大正元(1912)年には香里遊園地枚方に移転させました。このとき、枚方に移転開業した遊園地が現在のひらかたパークです。

京阪電気鉄道香里の宅地開発を決定したのは、香里遊園地の開園で当地の価値が高まったと判断したからです。このため、京阪電気鉄道は地価が上昇するのを待ちましたが思うようにはいかず、電鉄事業が不振となると土地を万成社や伏見善次郎氏に売却しました。


伏見氏は積極的に当地を売却しようと試みましたが、個人にできる事業には限りがあり、大正8(1919)年、香里園土地建物に土地を売却します。なお、ここで登場した香里園土地建物香里園という地名のおこりです。

大正9(1920)年、香里園土地建物の事業を帝国信託が引き継ぎ、大正12(1923)年の信託法施行に合わせて帝国信託は関西土地に改称しました。しかし、関西土地は所有地の分譲に専念するばかりで、インフラなどの整備にはつとめませんでした。このため、香里園は桜の美しい景勝地として花見客が訪れる程度でした。

 

京阪電気鉄道が静観しても、伏見氏が独力で取り組んでも、関西土地が分譲に専念しても香里園の販売が進まなかったのは、あるものが欠けていたからでした。

それは、水です。

 

枚方丘陵は大阪層群の積み重なりのため保水力に乏しく、樹林のまま放置されるかせいぜい果樹園として利用されるのみでした。このため、郡村香里遊園地のためのまとまった土地を確保できたのです。そして、枚方丘陵の伏流水は断層面に沿って湧き出すので、郡村枚方丘陵の裾に所在したのです。

 

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国土水循環モデルおよび都市圏活断層図より。枚方褶曲を境に赤線の地下水青線の地表水に変わっていることがわかる。

 

しかし、京阪電気鉄道も伏見氏も関西土地も香里園上水道を敷設しませんでした。このため、香里園の住民は水を求めて郡村の共同井戸まで丘陵を下りなければなりません。

そもそも郊外住宅地とは、都市へ通う不便を差し引いてもそれを上回る利便があると売り出すものです。しかし、水道という基幹インフラがないのは手痛いものでした。

香里園大阪市京都市に住む都市住民のための郊外住宅地でした。大阪市では明治28(1895)年、京都市では明治45(1912)年から上水道事業を開始し、上水道のある暮らしが浸透していたところでした。その中で、上水道はおろか井戸へのアクセスも悪い香里園は市民の目にどう映ったでしょうか。

 

だからといって、丘陵上に上水道を敷設するのは簡単なことではありません。香里園土地建物香里園への上水道敷設を試みましたが頓挫、経営が傾き、帝国信託(後・関西土地)に事業が引き継がれています。

結局、香里園への上水道敷設は芦屋土地(後・浪速土地)の登場を待たねばなりません。そして、この上水道整備によって本格的な宅地開発がようやく始まったのです。

 

4.香里園経営地

話は京阪電気鉄道に戻ります。私鉄王国と言われるように、関西は多くの私鉄がひしめき、各社が熾烈な乗客獲得競争を繰り広げました。幸運なことに京阪電気鉄道の競争相手は国鉄のみでしたが、いつ競争相手が現れてもおかしくありません。

そこで京阪電気鉄道は、自らの手で淀川右岸に京阪間路線を新設することにしました。大正11(1922)年に子会社の新京阪鉄道を新設すると、大正12(1923)年に北大阪電気鉄道を買収しました。

北大阪電気鉄道は、千里丘陵で宅地や霊園を開発するために設立された会社です。このため、京阪電気鉄道北大阪電気鉄道保有していた十三と千里山を結ぶ鉄道路線*3のほかに、千里丘陵の不動産を手にすることとなりました。京阪電気鉄道は、これらの不動産を管理するために京阪土地を創立し、京阪電気鉄道新京阪鉄道の沿線土地を一括で管理しました。

京阪土地が創設されたとき、香里園に土地を所有する浪速土地も合併しました。浪速土地といえば、香里園上水道を敷設した芦屋土地の後身でしたね。こうして、一度は手放した香里の土地が、再び京阪電気鉄道のもとに戻ってきたのです。

京阪土地は香里園の開発に本腰を入れました。大正13(1924)年から香里駅東側の土地を買収し、昭和元(1926)年に香里園経営地として住宅を分譲しました。そして、道路や公衆浴場など、各種インフラの整備を進めました。
昭和2(1927)年に京阪電気鉄道が京阪土地を合併すると、鉄道と一体になった香里園の開発が進められ、昭和5(1930)年に香里駅に急行が停車するようになりました。

また、聖母高等女学校(現・香里園ヌヴェール学院)を香里園経営地の一角に誘致し、昭和7(1932)年に移転開校させました。この誘致は戦後に功を奏し、昭和29(1954)年には朝の通学のために女学生専用車が設定され、昭和46(1971)年には香里園駅に学生専用出口が設けられました*4


しかし、そう簡単に香里園経営地の販況はすぐに傾いてしまいます。そこに目をつけたのが、当時の田邊治通大阪府知事実弟、田邊真弘氏でした。

 

5.成田山大阪別院

千葉県成田市成田山新勝寺不動明王を本尊とするお寺で、江戸時代に入ってから信仰を集め、国内有数の門前町が形成されました*5成田山信仰は全国的に広がり、明治時代に入ると各地に別院が設けられました。しかし、別院は東日本に設けられるばかりで、関東より西には存在しませんでした。

 

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成田山新勝寺の参道。800mにわたって150店以上の店舗が軒を連ねます。

 

そこで昭和2(1927)年ごろ、成田山の篤信家である田邊氏は京阪電気鉄道に大阪別院の建立計画を持ちこみました。このとき田邊氏は、香里園経営地が発展しないのは大阪の鬼門に位置するからであって、不動尊を設けることで鬼門を退散消除するべきだと説きました。


昭和5(1930)年に昭和恐慌が訪れると、経営が傾いた京阪電気鉄道新京阪鉄道を合併しました。不動産事業も苦境に立たされ、広大な経営地は取得費用を下回る価格で販売されました。
香里園経営地も開発が頓挫してしまい、多くの未造成地が残されました。そこで、京阪電気鉄道は田邊氏の言葉を思い出し、香里園経営地への別院設置を成田山新勝寺に申し込み、昭和9(1934)年に成田山大阪別院が創建します。神頼みならぬ不動明王頼みでした。

京阪電気鉄道不動明王頼みは熱心なもので、京阪電気鉄道関係者は毎年春、秋、年末に当院を参拝し、京阪電気鉄道鉄道線の客車と京阪バスの車両には成田山の御守を祀っています*6

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成田山大阪別院。初詣や節分には多くの参拝客が訪れる。

 

さて、本山の成田山新勝寺といえば国内有数の門前町でした。しかし、成田山大阪別院は香里園経営地の未造成区画に創建され、香里駅までのアクセスは京阪バスが担いました。このため、大阪別院には成田山のような門前町は形成されませんでした。

 

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香里園駅から成田山大阪別院へ至る道。左手に成田焼の店舗があるが、参道とは言いがたい。

 

さて、成田山大阪別院は、京阪電気鉄道が乗客そして住民を誘致するために創建されました。しかし、成田山大阪別院は乗客でも住民でもないものを誘致します。

終戦間もない昭和20(1945)年、とある夫婦が息子の安否を確かめるため広島に向かうことにしました。しかし、当時は自動車での長距離走行は一般的ではありませんでしたし、終戦直後のため道路事情もよくありません*7。このため夫婦は、車両故障を防止するために成田山大阪別院に車を持ちこみ、安全を祈願してもらいました。これが、日本初の人車一体となった安全祈願でした。
この安全祈願後、成田山大阪別院には自動車祈祷が相次ぎ、昭和29(1954)年には交通安全祈願専用の祈祷殿が設けられます。祈祷殿の新設は大きな反響を呼び、翌昭和30(1955)年の初詣ではドライバーが殺到、祈祷を願う車列は国道1号まで伸びたそうです。

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祈祷殿では一度に100台の車を同時に祈祷できる。

 

結局、成田山大阪別院が誘致したのはドライバーでした。祈祷殿では30分に1回祈祷が行われ、年間20万台、100万人が当院で祈祷を受けています。

 

6.香里製造所

昭和12(1937)年に日中戦争が勃発すると、しだいに戦時体制に移行します。関西唯一の火薬製造所であった宇治火薬製造所でも増産体制に移りましたが、無理な増産が祟ったのか、火薬の製造中に爆発事故が発生してしまいます。さらに、宇治火薬製造所は火薬の製造所と貯蔵庫が近接していたために貯蔵庫に引火・爆発し、8人の死者を出してしまいました。このため、陸軍省は分工場を新設して火薬の製造機能を移転することにしました。

火薬を扱うにあたって、周囲に人家があるような場所は避けるべきです。宇治火薬製造所は、宇治川の氾濫原に所在したため周囲に人家はありませんでした。しかし、氾濫原に所在したために火の手を遮るものもなく、昭和12(1937)年の爆発事故では周囲の人家にも飛火しています。さらに、貯蔵庫どうしが近接しても爆発の規模が拡大するだけです。このため、貯蔵庫をゆったりと設けられるだけの土地も必要です。

このため、新たな分工場は万が一爆発事故が発生しても、火の手を遮ることができる広大な土地が必要だったのです。そんな土地などあるのでしょうか。香里にはありました。

 

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スーパー地形アプリより。宇治火薬製造所の周囲に人家はないが、火の手を遮るものもない。


枚方丘陵は生駒断層帯の活動によって持ち上げられて形成しました。そして、持ち上げられた枚方丘陵は、やわらかな大阪層群が積み重なって形成されているので、河川によって簡単に浸食されます。香里においても、枚方丘陵東辺の天野川が丘陵を八手状に浸食して、入り組んだ谷津田を形成しています。この谷津田こそが天然の土塁として注目されたのです。

 

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スーパー地形アプリより。天野川と寝屋川の両水系が枚方丘陵を八手状に浸食している。


そして、昭和14(1939)年に宇治火薬製造所香里工場が設置されました。後の香里製造所です。

香里製造所では、宇治火薬製造所から送られてきた火薬を枚方製造所から送られてきた砲弾に充填し、貯蔵していました。それぞれの谷で一筋の生産ラインを形成し、外周尾根の道路で原料が谷の奥に運ばれ、下流へ流しました。谷の合流地点に集積された製品は、専用線を通して片町線星田駅に輸送されました。また、事故に備えてそれぞれの谷の間には連絡用のトンネルが設けられました。


昭和20(1945)年に終戦を迎えると、香里製造所は米軍に接収され、爆破解体されました。翌昭和21(1946)年に跡地が大蔵省に移ると、香里国民学校(現・香里小学校)が創立されました。他にも、鉄工所や自転車工場、戦災者住宅などに転用されましたが、大部分は放置されたままでした。
昭和27(1952)年にサンフランシスコ講和条約が発効して香里製造所跡地が返還されると、火薬製造会社が近畿財務局に払い下げを申請しました。これは、昭和25(1950)年に朝鮮戦争が勃発しており、その戦争特需があったからです。
しかし、香里製造所が所在する枚方市では、明治42(1909)年と昭和14(1939)年に禁野火薬庫が大規模爆発を起こしており、昭和の爆発では94人の死者を出していました。このため、地域住民は反対運動を展開しました。さらに、日本社会党所属の寺嶋枚方市長も反対運動に参加し、昭和28(1953)年には禁野火薬庫と香里製造所の宅地転用を求めて払い下げを申請しました。
高まる反対運動を受けて、政府は大規模住宅団地の設置を枚方市に提案しました。寺嶋市長はこの提案を受け入れ、日本住宅公団により禁野火薬庫に中宮団地が、香里製造所に香里団地が造成されます。

 

7.香里団地

香里団地は昭和33(1958)年に入居を開始しました。計画戸数5850戸、計画人口22000人を誇る当時の日本最大の団地でした。

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ゆとりと緑が広がる香里団地

これまで、団地といえば都市における住宅問題を解決するため、都心部に高容積率で設けられる空間装置でした。一方の香里団地は、緑豊かな丘陵地に低容積率で建てられ、新たな住宅時代の到来を象徴しました。香里団地には視察のための観光バスが連日乗りつけたそうです。

 

しかし、香里団地日本住宅公団にとって初めての大規模住宅団地だったため、香里団地には至らない点がいくつか見受けられました。香里団地の歴史とは、環境改善の歴史でもあるのです。

まず、はじめに現れた問題は商業施設でした。

 

集落や香里園経営地といったオールドタウンの向こう側に造成されたニュータウンでした。団地内で生活が完結するよう、さまざまな施設が設けられました。

商業施設もその一つです。香里団地には、香里マーケット24店と店舗付住宅18戸が設けられました。しかし、計画人口22000人に対して店舗数が不足したため、わずかな商業施設に毎日6000人以上の買物客が殺到し、各店では価格のつり上げや量目のごまかしが横行しました。

だからといって、香里団地外で買い物をするならば、枚方市街まで京阪バスで出なくてはならず、ニュータウンは商業施設の寡占状態でした。
香里団地の住民は日本住宅公団に店舗の増設要求をしました。この要求を受けて、日本住宅公団は昭和35(1960)年に大丸ピーコック*8を誘致しました。ちなみに、このとき開業した大丸ピーコックは、日本初のスーパーマーケットチェーンです。
しかし、ピーコックストアの出店だけで寡占状態が解決するはずもなく、翌昭和36(1961)年に農協から野菜を仕入れて販売する青空市が出現しました。当然ながら、日本住宅公団は反発しますが、日本住宅公団の不十分な整備が原因なので強い規制を打ち出せず、昭和52(1977)年のトップセンター*9出店まで、青空市は催されました。

 

続いて現れた問題は駐車場です。

香里団地は火薬製造所跡に設けられたため、周囲の集落から隔絶された立地にありました。このため、市街地はおろか最寄駅でさえも2km離れており、出かける際は自動車交通に頼らねばなりません。

香里団地内の道路は5mの幅員を確保して整備されましたが、ひとたび団地外に出ると細街路や袋小路が入り組んでいました。枚方市駅枚方公園駅へは大幹線である国道1号を横断しなければならず、香里園駅へも駅周辺の道路が狭いため、渋滞が慢性的に発生していました。
そして、香里団地と駅を結ぶ足は京阪バスに期待されていたので、戸数に比べて駐車場は整備されていませんでした。このため、昭和40年代に自家用車が普及すると、団地内の道路は慢性的に路上駐車されるようになります。
昭和50年代に入ると、団地住民の子どもが成長し、役目を終えた児童公園が駐車場に転用されましたが、駐車場不足は解決しません。

 

駐車場が根本的な解決を見るのは平成6(1994)年のことです。日本住宅公団は、入居開始から40年を迎える香里団地の建替事業に着手しました。このとき、低層棟ばかりの住宅棟を高層棟に集約し、残地に駐車場を設けることで、駐車場用地の問題は解決しました。
なおも土地が残ります。当初、この残地は大阪府枚方市に譲渡して、公営住宅福祉施設を設置する予定でした。しかし、両自治体とも財政難を理由に残地の受け入れを見送ったため、民間に払い下げられることとなりました。
このとき、民間に払い下げやすくするため、日本住宅公団は空間プランに大きな制約を加えられませんでした。このため、残地には高層マンションが建つこととなり、香里団地に訪れた低容積率の時代は日本住宅公団の手によって幕を閉じました。

ですが、民間への払い下げはなかなか進まず、平成5(1993)年から空家補充を停止した香里団地D地区とE地区では、地区のゴーストタウン化が進行しました。このため、平成12(2000)年に定期借家の募集を再開しています。

そして平成19(2007)年、香里団地D地区とE地区は建替をせずに住宅棟を集約し、残地を譲渡する方針へと転換しました。

 

8.香里幼稚園

香里団地ニュータウンでした。入居者としてこれから子どもを持つべき共働き夫婦を想定していたので、入居者収入基準は約3万円と高く設定されていました。当時は大卒初任給が15000円に満たない時代でしたので、高嶺の花だったことでしょう。
しかし、共働き夫婦を想定したのは収入基準だけで、帯状に配置された公園、住宅棟の間に設置された遊具など香里団地の諸施設が専業主婦による子育てを想定していました。共働きでない設計者が、共働きの生活を描くには想像力の限界があったのです。

それでも、入居者夫婦は続々と子どもを持ちます。香里団地保育所や幼稚園がないため、子どもを育てるには夫婦のどちらかが(多くの場合は妻が)職を手放す必要がありますが、高い入居者収入基準が離職を阻みます。

さらに、香里団地の間取りは共働き夫婦が住むために最適化された2DKがメインで、家政婦や親類を住みこませることも困難です。
また、香里団地は地縁や血縁をも隔絶して成り立ったニュータウンでした。近隣住民(その多くが共働き夫婦です)や親類に子どもを預けるという選択肢もありません。

 

香里団地竣工時、保育園や幼稚園はカトリック系の聖母幼稚園、浄土真宗系の香里ヶ丘保育園、真言宗系の成田幼稚園のみで、枚方市は保育園や幼稚園を香里団地に一園も設けませんでした。このため、昭和35(1960)年から市立保育所の設置運動が起こり、昭和37(1962)年に枚方市香里団地保育所が開所させました。

これで、香里団地の保育要求が満たされたわけではありません。新住民は幼稚園を求めました。当時、市立幼稚園は枚方幼稚園の1園のみでし、昭和40年代に入ると枚方幼稚園の応募者が増加したため入園は抽選制となっていました。
このため地域住民は、昭和41(1966)年に寺嶋枚方市長と面会し、市立幼稚園の増設を求めました。しかし寺嶋市長は、貧しい財源の中で保育所を毎年新設しているので、幼稚園は昭和43(1968)年度の新設を待ってほしいと答えました。
寺嶋市長の消極的な態度を受け、幼稚園設置運動はさらに高潮しました。この高潮を受けて、昭和42(1967)年に香里小学校と樟葉小学校に併設する形で市立幼稚園が開園します。


同昭和42(1967)年に枚方市長選挙が行われます。前職の寺嶋氏は、日本社会党を離党して自民党民社党の推薦を受ける一方、新人の山村氏は日本社会党の公認、日本共産党の推薦を受けて子育てを重点公約に掲げました。

このため、枚方市民15万人のうち2万人を占める*10香里団地の住民は、さらなる保育の拡充を求めて山村氏に投票し、山村氏が当選を果たします。そして山村市長は、香里幼稚園の40名増員および高陵幼稚園の開園を決定しました。

 

寺嶋氏はきっと、団地を政治の目的として誘致したはずです。ですが、団地自身のもつ政治性に足元をすくわれて市長の座を降りることとなったのです。
だからといって、山村市長に追い風が吹いていたわけでもありません。香里団地に育つ子供は確かに成長していき、昭和46(1971)年度の市立小学校6校新設など、子育て分野への支出が膨らみつづけ、他分野に予算を振る余裕を失ってしまいます。

 

9.香里地区

香里の地勢は京阪本線を境に大きく異なります。枚方丘陵はさまざまな壁にぶつかりながら宅地化されましたが、西の低湿地は京阪駅前がわずかに宅地開発されるのみで、主に水田として利用されました。
しかし、戦後、大阪都市圏に人口が流入すると、香里の低湿地にも住宅需要が波及し、昭和30年代に入ると、国道1号線沿いに公営住宅が設置されはじめました。
住宅需要はさらに拡大します。昭和33(1958)年ごろからは、京阪駅前の低地を買い占めては住宅を販売する分譲業者が現れました。つづいて、文化住宅やアパートなどの木造賃貸住宅を建ててまわる貸家業者が現れました。

これらの業者の中には、まとまって手に入ったお金を有効活用するため不動産業に進出した業者も多かったため、住宅はできるだけ建設費を切り詰めて建てられました。このため、香里園駅前には、無秩序な密集市街地が形成されます。
さらに、工業化も波及しました。当地域では、低湿地の農地に工場が進出しましたが、工業用水として地下水を汲み上げたため、1年に10cmもの地盤沈下をもたらしました。

 

安普請と地盤沈下香里地区を襲います。昭和36(1961)年に襲来した第二室戸台風で大阪湾岸は高潮に見舞われました。このとき、高潮が寝屋川を遡上し、香里地区の新興住宅地は96%が浸水してしまいます。

昭和50年代に入ると、建物の老朽化が進行し、住環境がさらに悪化しました。このため昭和61(1986)年から、寝屋川市香里地区の住宅市街地総合整備事業に着手し、主要生活道路や公園の整備、文化住宅やアパートの改善などに現在も取り組んでいます。

 

10.ダイエー香里店

あれよあれよと住宅が設けられ、あれよあれよと人口が増加した香里地区にはスーパーが進出します。

先陣を切ったのはシロ(後・ジャスコ)でした。昭和41(1966)年、香里園駅前に開業したシロ寝屋川店は、当時典型的な駅前箱型店舗でした。

つづいて昭和43(1968)年、香里園駅から少し歩いた水田地帯にダイエー香里ショッパーズプラザが開業します。ダイエー棟・銀行棟・専門店棟・外食棟・500台の駐車場が独立に設けられた日本初の郊外ショッピングセンターには、連日買物客が殺到しました。
ダイエーの出店にあわせて、香里園駅は西口が開設されました。すると、西口からダイエーへ伸びる通りを1日に3万人が往来し、130軒の専門店が並ぶ香里ダイエー本通商店街が成立しました。

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香里ダイエー本通商店街。まるで参道のよう。

この店舗の開業を皮切りに、全国にショッピングセンターが続々と開店し、駅前箱型店舗は苦境に立たされます。これは香里地区においても同様で、ジャスコ寝屋川店は昭和48(1973)年に閉店しています。

 

そもそも、駅前箱型という店舗形態もダイエーが創始したものでした。昭和32(1957)年、京阪千林駅前に1号店を構えたダイエーは、価格破壊を掲げて買物客から絶大な支持を獲得し、破竹の勢いで成長しました。

そんなダイエーが次なる1手として打ったのがショッピングセンターでした。ダイエーは駅前箱型店舗というスタイルを捨て、スーパーの時代をまた一つ進めたのです。

ダイエーは、全国の大都市にショッピングセンターを出店しました。その一方、劣勢に立たされたジャスコは、ダイエーと対峙するわけにもいかず、地方都市への出店を続けます。地方都市の店舗を黒字化するためには、ほとんどの住民を顧客にしなくてはならないので、ジャスコは顧客のニーズを次々と形にすることで、信頼を勝ち取りました。
ダイエーイトーヨーカドーなどの大型スーパーに伍する体力を蓄えたジャスコは、昭和57(1982)年の葛西店を皮切りに、太平洋ベルトに超大型スーパーを続々と開店しました。

ダイエーは大都市への出店を続けたため、顧客のニーズを形にするのはジャスコよりも不得手でした。このため、ジャスコと対峙しなくてはならなくなったダイエーは劣勢に立たされます。スーパーの時代はまたしてもダイエーによって、ショッピングセンターから超大型スーパーへと歩みを進めたのです。
香里地区でもダイエーへの下克上が起こりました。昭和53(1978)年にジャスコが駐車場1000台、専門店95店舗の寝屋川グリーンシティを開店させました。さらに平成10(1998)年には、平和堂がアル・プラザ香里園店を開業させ、香里地区での競争が激化します。この中で、ダイエー香里店は売上が半減し、平成17(2005)年に閉店した。跡地は東急不動産に買収され、現在はマンションが建っています。

 

さて、平成に入っても香里地区の市街地総合整備事業は続けられていました。平成16(2004)年に都市計画道路香里駅前線と西側駅前広場が完成すると、西側駅前広場にはライフ香里園店とタワーマンションが設けられました。

また、平成23(2011)年には、関西医科大学香里病院の建替にあわせて、香里園駅東口に、関西医科大学香里病院、タワーマンション、駅前広場からなる香里園かほりまちが整備されました。これらの駅前広場の整備で、バスの遅延が改善されました。

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香里園かほりまち。薬局や歯科医院など医療系のテナントが多い。

 

ここまで、香里の歴史を追ってきました。香里が、いくつもの風景を兼ね備え、幾重にも思惑が重なっていたことを感じていただけたでしょうか。しかし、これで終わりではありません。

ダイエー香里店と買物客を奪い合ったイオンモール寝屋川でしたが、平成27(2015)年にイオンモール四條畷が開業すると、翌平成28(2016)年に建て替えのため閉店しました。また、平成40(2028)年にかけて香里園駅を含む京阪本線寝屋川市枚方市間の立体交差事業が進行しています。

 

香里の風景はこれからも変わっていくのです。

 

参考
  • 原田陽子(2009),香里団地とその周辺地域における空間特性と団地周辺居住者の住環境評価と居住実態,日本建築学会計画系論文集 74
  • 大友達也(2007),あの弱かったイオンがダイエーを呑み込んでしまった。何故?,社会科学 79
  • 近藤公生(1956),香里団地計画における緑地の計画について,造園雑誌 20(4)
  • 中川理(2001),昭和戦前期における大阪の郊外住宅地開発に見られた寺院の誘致,日本建築学会計画系論文集 540
  • 増永理彦(2004),公団賃貸住宅における団地再生のあり方について,生活科学論叢 35
  • 和田悠(2015),大阪府枚方市香里団地を中心とした幼稚園運動と女性の主体形成,立教大学教育学科研究年報 58
  • 片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編,近代日本の郊外住宅地,鹿島出版会,2000
  • 寺前治一,寝屋川史話100題,1974
  • 中村憲司(2007),自動車祈祷の発生と変容,佛教文化学会紀要 15
  • 成田山不動尊(成田山大阪別院明王院)[交通安全祈願 諸願成就]
  • 高谷好一・市深実(1961),枚方丘陵の第四紀層,地質学雑誌 67(793)
  • 和田康由・寺内信(1997),戦前期における土地会社の住宅地経営,日本建築学会計画系論文集 449
  • 住田昌二・中村恢子・石東直子(1965),大規模団地に於ける商業施設の管理,大阪市立大学家政学部紀要 13
  • 久保純・安田孝・羽田和弘・出井正弘(1994),戦前期京阪電鉄の住宅地開発に関する一考察,日本建築学会大会学術講演梗概集
  • 實清隆(1974),都市スプロールの社会経済的構造,経済地理学年報 20(1)

*1:新淀川が開削され、梅田が淀川左岸になるのは明治37(1904)年のことです。

*2:断層がずれたことで断層上の地層が撓(たわ)むこと。

*3:現在の阪急京都線ならびに阪急千里線の一部

*4:女学生専用車、学生専用出口ともに現在は存在しません。

*5:成田山新勝寺は日本で最も多くの初詣客を集める寺院です。

*6:なお、男山ケーブルには石清水八幡宮の御守が祀られています。

*7:昭和38(1963)年に日本初の高速道路である名神高速道路が開通しましたが、当時の自動車の性能が追いつかず、オーバーヒートや燃料切れをおこす車が続出しました。

*8:現在のピーコックストア

*9:現在のトップワールド

*10:人口の推移・動態・外国人人口 | 枚方市ホームページ