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内灘

金沢北郊の内灘砂丘は、手取川から運ばれた土砂が日本海の海流によって堆積してつくられ、国内で3番目に大きい砂丘です。

 

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10kmにわたってつづく内灘砂丘シームレス地質図および地理院地図より。

 

砂丘は、季節風による飛砂や夏の高地温といった環境の悪さから、浜岡砂丘や北条砂丘のように開発されないケースが多く、開発されたとしても新潟や鳥取といった大都市の一部に組み込まれて発展するケースが多数です。その中で、この内灘砂丘は郊外としての道を歩みました。

今回は砂丘に築かれた郊外のお話です。

 

 

1. 郊外電車 〜レジャー地の成立〜

1898年、日清戦争をうけて軍備増強をすすめる陸軍は、金沢城に北陸3県(富山・石川・福井)からなる第9師団を編成しました。また同1898年には鉄道(現・北陸本線)が金沢まで開通し、かつては三都(江戸・大坂・京)に次ぐ大都市であった金沢にようやく近代化が訪れます。

金沢にとって大きな転機となった1898年、外港である金石への鉄道(後・北陸鉄道金石線)が、1913年には宿場町である野々市への鉄道(現・北陸鉄道石川線)がそれぞれ開通し、金沢は都市圏を形成しようとしていました。

 

1880年代から遠洋漁業で著しい発展を遂げた内灘にも金沢都市圏の手が伸び、1924年浅野川電気鉄道(現・北陸鉄道浅野川線)が開通しました。

しかし、郊外電車は郊外から都市へ向かう定期需要ばかりに偏重してしまい、都市から郊外へ向かう非定期需要は薄弱になりがちです。
そこで浅野川電気鉄道は、大阪から宝塚へ向かう郊外電車からスタートした阪急電鉄を手本にとって、沿線開発を進めました。

一連の開発の目玉が1925年に宝塚をモデルに開園させた粟崎遊園です。
粟崎遊園は海水浴場、スキー場、温泉、劇場、動物園、遊具施設、野球場を擁する一大レジャー施設で、1928年には宝塚歌劇団を手本にとった少女歌劇団が編成されます。

 

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北陸鉄道浅野川線の終着・内灘駅。1929年に粟ヶ崎遊園駅として開業。

 

金石へ伸びる金石電気鉄道も負けじと対抗し、涛々園を開園しました。こちらも温泉、旅館、動物園、劇場、写真館を擁する一大レジャー施設で、両園は来園客の誘致にしのぎを削りました。

 

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金沢から郊外へ伸びる3本の鉄路。今昔マップより。

 

しかし、1941年に太平洋戦争が開戦すると、粟崎遊園と涛々園はともども休園に追い込まれました。
栗崎遊園は第9師団に接収され、仮兵舎や日本タイプライターの軍需工場として転用されました。

 

2. 内灘闘争 〜農業への転換〜

第二次世界大戦に敗れ荒廃しきった日本でしたが、1950年に朝鮮戦争が開戦すると米軍の兵器需要が増加し、特需景気とよばれる好景気を迎えます。

この特需で砲弾需要も増加し、米軍は日本メーカーが納入する砲弾の性能を検査する試射場が必要となりました。

この試射場には長い海岸線をもつ砂丘が適したため、浜岡砂丘内灘砂丘が候補に挙げられ、政府は内灘砂丘への試射場設置を内灘に通告しました。

しかしこの試射場設置に対し、内灘内灘闘争と呼ばれる多角的な反対運動を展開しました。

内灘は試射場設置への反対を決議し、北陸鉄道浅野川線での資材搬入に対してストライキを決行しました。

さらに1953年の衆参両院選*1では、接収を担当した林屋亀次郎国務相が、接収反対を掲げた井村徳二氏に敗れました。

 

しかしながら、熾烈な反対運動もむなしく、試射場の使用が許可されました。このため、砂丘を拠点としていた沿岸漁業が操業できなくなりました。また、時を同じくして、内灘漁団は北海道や青森の漁場から締め出され、内灘は主産業である漁業を失います。

 

窮地に追い込まれた内灘が見出した活路は農業でした。

試射場の補償として1953年からはじまった内灘地区代行開墾事業では、砂丘の開墾や防風林・灌漑施設の設置といった農業基盤の整備が行われました。

さらに米軍が1957年に撤退すると、追加補償として河北潟干拓され、大規模稲作による食糧基地が目指されました。

 

しかし1970年に減反政策が始まり、1985年に干拓が完了しても干拓地での稲作が禁止されました。このため、干拓地では畑作あるいは酪農が営まれました。

ですが、そもそも畑作に慣れていないうえ、干拓地ゆえに野菜が冠水することもしばしばでした。これらの困難に直面して畑地を手放す農家が相次ぎ、この耕作放棄地には工場や宅地が進出することとなります。

 

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内灘砂丘から河北潟と白山連峰を望む。

 

意図しない外圧により、漁業から農業へと産業構造を転換させられた挙句、内灘は主産業を失ってしまいました。一体どこに活路を見出せばよいのでしょうか。

 

3. 宅地開発 〜砂上の郊外〜

内灘に、金沢の手が伸びてきたのは高度経済成長期のことでした。

高度経済成長を迎えて膨張する金沢市は、1954年の安原村、額村、内川村、犀川村、湯涌谷村、1956年の押野村、1957年の浅川村、1962年の森本村と4次にわたって8村を編入しました。

それでも膨張の止まらない金沢の受け皿として、石川県は内灘にフィーチャーし、1960年に内灘村を金沢都市計画区域に指定しました。

そして、都市計画の叩き台として、1960年に石川県住宅公社は内灘砂丘上にアカシア団地を造成しました。

当初は「砂上の楼閣」などと揶揄されたアカシア団地でしたが、芝生や植樹を徹底して飛砂を防ぎ、全ての住宅を平屋建として安全性にも配慮したため、ほどなく成功を収め、転入者が急増した内灘は1962年に町制を施行して内灘町となります。

 

この成功を受けて石川県住宅公社は、1967年の鶴ヶ丘、1969年の鶴ヶ丘4丁目、1970年の鶴ヶ丘5丁目と、内灘町への住宅団地の造成を進め、民間による宅地開発も進みました。

加速する宅地化と地価高騰を目の当たりにした土地所有者は、民間や石川県に土地を売るのではなく土地区画整理組合を組織しはじめ、1967年の大根布第1・ニューアカシア、1968年の鶴ヶ丘、1969年の向粟崎、1971年の向粟崎第2、1972年の向粟崎第3、1973年の向粟崎第1、1974年の大根布第3・向粟崎第5、1975年の大根布第2などの土地区画整理事業が展開されました。

 

4. 文教都市ベッドタウンからの脱皮〜

郊外都市に活路を見出した内灘町でしたが、内灘闘争のような産業構造の転換がいつ訪れるかわかりません。このため、内灘町は新産業の開拓に取り組みます。

そして、新産業として脚光を浴びたのが北陸電力金沢火力発電所の建設計画でした。内灘町は重工業への転換を目論んだのです。

ですが、内灘闘争での経験から、計画を小出しに公表すると、町民の反対に遭って計画が難航することは必至でした。

このため、内灘町はできる限り計画の公表を遅らせ、1970年に北陸電力と用地買収の仮契約を済ませてから公表に踏み切りました。
しかし、内灘町は既に郊外としての道を歩みはじめていました。住環境が脅かされた県営住宅の住民を中心に反対運動が展開され、北陸電力は1973年に火力発電所の建設地を七尾市に変更します。

 

こうして内灘町は重工業への道さえも絶たれてしまいました。そんな中頼みの糸となったのが大学誘致でした。

この大学誘致は晴れて実現します。1972年に金沢医科大学が開学し、1974年に金沢医科大学病院が開院しました。

さらに、1985年には若年人口の増加をうけて内灘高校が開校し、内灘町文教都市としての道を歩んだのです。

 

5. 新産業 〜郊外の新たな一手

さて、内灘季節風による飛砂がつくった町でした。

この季節風を有効活用するべく、内灘町は2004年に内灘風力発電所を建設しました。

 

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右手に内灘風力発電所をのぞむ。冬季雷を防ぐため避雷塔が併設されている。

 

さらなる風力資源活用をねらって2007年に32基の風力発電所計画が立ち上がりましたが、このオーバースケール発電所建設計画に対し、地元住民は景観が損なわれるとして反対し、建設計画は中止されました。

 

今となっては何の変哲もない郊外に見える内灘町ですが、幾度もの産業転換を迫られながらも砂丘に花開いた文教都市だったのです。

 

参考

*1:いわゆるバカヤロー解散。